【19-05】香港の「一国二制度」の行方
2019年7月4日
柯 隆:東京財団政策研究所 主席研究員
略歴
1963年 中国南京市生まれ、1988年来日
1994年 名古屋大学大学院経済学修士
1994年 長銀総合研究所国際調査部研究員
1998年 富士通総研経済研究所主任研究員
2005年 同上席主任研究員
2007年 同主席研究員
2018年 東京財団政策研究所主席研究員、富士通総研経済研究所客員研究員
1997年、イギリスの植民地だった香港は中国に返還された。そのとき、中国政府は、イギリス政府というよりも、香港の住民に、香港の資本主義の制度を50年間変えないと約束し、いわゆる「一国二制度」の考えを取り入れた。しかし、一つの疑問として、筆者は中国で受けた教育のなかで、社会主義体制はもっとも優れたものであるといわれ、香港がイギリスの植民地でなくなり、祖国中国に返還されることを香港の人々はなぜ素直に喜ばないのだろうか、とずっと疑問に思っていた。
だいぶ昔のことだが、広州出張のついでに現地の研究者たちと夕食を食べたとき、彼らは冗談半分で、「百年前、イギリス人は広州を植民地にしてくれれば、我々は今、香港の人と同じように自由な生活を送ることができる」といわれた。何ともいえない大胆な発言で私は驚かされた。
1978年、中国は鎖国政策を止め、「改革・開放」へ針路を変えた。そのとき、香港は経済繁栄の象徴だった。なぜ、イギリス統治下の植民地なのに、香港経済はあそこまで繁栄しているのだろうか。当時、20代の筆者はこの難問を解明することができなかった。それよりも、なぜ中国経済がこんなに貧しくなったのかは筆者にとって重要な課題だった。
それから筆者は留学を決意して、名古屋に行った。何を勉強するかについて、私は迷わず経済学を専攻した。
近代経済学の理論では、市場経済において市場メカニズム(見えざる手)による資源配分はもっとも合理的で効率がいいといわれている。それに対して、政府による資源配分は歪んでしまう可能性が高い。経済学教科書のこのような解釈では、香港経済の繁栄を説明することができるが、なぜ中国が市場経済を取り入れなかったのかは説明されていない。
1980年代、中国の公式メディアでは、市場経済という言葉すらタブーだった。のちに、市場経済ではなく、商品経済という言葉が使われた。それでも、中国政府は政府の役割は主であり、市場の役割はそれを補完するものと、従来の姿勢を堅持した。
中国のこの40年間の経済発展は間違いなく、市場経済のお蔭といって過言ではない。たとえば、中国と同じ境地にあった北朝鮮は市場メカニズムの導入を拒否し続けているから、今のような窮地に陥ってしまった。
市場経済の合理性が明々白々なのに、なぜ拒まれているのだろうか。確かに経済は合理性に基づいて運営されるものだが、政治には政治力学の合理性があり、それは別物である。専制政治にとり、市場経済はコントロールしにくいものである。政府にとってコントロールしやすい計画経済のほうが都合がいい。
あらためて香港の社会制度をみてみよう。多くの日本人が誤解している点として、香港は民主主義の制度であり、中国大陸と相いれないから、一国二制度が導入されたといわれている。しかし、香港には、民主主義の制度はイギリス植民地時代でさえ、なかった。要するに、イギリス人は香港を統治するために、民主主義体制を与えなかった。香港にあるのは、民主主義ではなく、法による統治と自由である。この経験からいえることは、民主主義でなくても、その経済は繁栄する可能性が十分にあるという点である。人々にとって重要なのは自由である。その自由を担保するのは法による統治である。この関係性をはっきりしておく必要がある。
このような論点整理を踏まえれば、香港の優位性は明らかである。香港の経済は最大限の自由が担保されるレッセフェール(自由放任)の市場経済である。法制度は英国法がほぼそのまま取り入れられ、香港人の自由を担保していた。自由を味わった香港人は再び社会主義のイデオロギーに束縛されるとなると、当然のことだが、拒否反応を起こす。
しかし、そもそも一つの国で二つの制度が同時に存在することは短期的にありえるとしても、長期的には不可能である。しかも、中国大陸の住民にとり、香港の自由を享受できないのは不公平感が出てくる。これと似たような事例は金融制度でもみられる。1994年まで、中国には人民元のほかに、人民元外貨兌換券という外国人向けの通貨が存在していた。中国で二重通貨性を導入した背景には、極端な外貨不足と大幅な元安を食い止めたいことがあった。金融論では、悪貨が良貨を駆逐するという命題がある。社会制度でも、悪い制度は良い制度を駆逐する可能性が高い。香港はその典型といえる。
目下、香港で起きた大規模な抗議デモは、犯罪者が中国本土に引き渡すための条例案を採択しようとする香港政庁の決定に抗議するための動きである。中国政府の言い分として、大陸の腐敗幹部などの犯罪者にとって香港は犯罪者の天国である、ということを看過できない点が挙げられる。それに対して、香港住民が危惧しているのは、この条例が採択されれば、香港人の言論の自由が脅かされる心配である。近年、香港の書店主が本土の警察に拉致されていった事案が起きている。法の手続きを踏まない本土警察による法の執行は、香港住民の不安を煽っている。
むろん、この問題はたとえ香港政庁が関連法案を撤回しても、解決されない。重要なのは、中国が法治国家に転換することである。しかし、一党独裁の専制政治と法治体制とはいわば水と油の関係にある。中国が法治国家に転換するのは気が遠くなるほど時間がかかる。
結論的にいえば、香港が中国に返還されたときから、その社会制度も中国の一部になる運命となっている。1997年当初、世界の政治学者の間で、香港の中国化、あるいは中国の香港化、という論争があった。しかし、巨大国家中国が香港に影響され、民主化していくことはありえない。香港の中国化は避けられない動きである。これこそ香港の運命というべきものである。1997年に起きた「移民潮」(香港人はカナダ、オーストラリア、イギリスなどに移民する動き)は香港の中国化を恐れている香港人の合理的な判断の結果である。残念ながら、ここでは一国二制度は長続きしないといわざるを得ない。