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【20-08】中国、デジタル人民元発行を急ぐ狙いと課題

2020年11月10日

柯 隆

柯 隆:東京財団政策研究所 主席研究員

略歴

1963年 中国南京市生まれ、1988年来日
1994年 名古屋大学大学院経済学修士
1994年 長銀総合研究所国際調査部研究員
1998年 富士通総研経済研究所主任研究員
2005年 同上席主任研究員
2007年 同主席研究員
2018年 東京財団政策研究所主席研究員、富士通総研経済研究所客員研究員

プロフィール詳細

 理論的には、通貨は支払手段、価値尺度と価値保蔵という三つの基本的な役割を果たすものといわれている。通貨が誕生する前の時代において人々は物々交換を行っていたとみられている。そして、物々交換の不便さを克服するために、通貨が誕生してそれを介して取引が行われるようになった。考古学者によると、人類が最初に通貨として使ったのは貝殻や動物の骨などだったといわれている。

 しかし、貝殻や動物の骨には破損しやすいという欠点がある。銅や鉄を精錬できるようになってから、金属製の通貨が誕生した。しかし、金属製の通貨には持ち運ぶときの不便さがある。それに取って代わったり紙幣が誕生した。むろん、紙幣にも欠点がある。それは偽造されやすいことである。そのため、世界主要国はその紙幣が偽造されないように、さまざまな技術を開発して紙幣に施している。

 今、世界の通貨は、IT技術の発達をきっかけに明らかに新しい時代に突入しようとしている。それはデジタル通貨の誕生である。

 中国は新興国だが、アリペイやウィチャートペイなどのスマホ決済が一早く導入され、普及している。一方、多くの日本人は電子マネーの導入を聞くと、まずそのセキュリティを心配するはずである。日本人は万全でないかぎり、新しいことにチャレンジしようとしない傾向がある。電子マネーもスマホ決済もデジタル通貨もいわば未知の世界であり、最初から完璧な仕組みと技術を開発して、それを導入することはありえない。中国の取り組みは最初、少額の取引でテストして、それから徐々にその仕組みと関連の技術を改善することであった。

 中国で、スマホ決済はタクシーの利用やネットショッピングなどに広く使われているが、その多くが少額の取引である。今のところ、詐欺などの事件はあまり報告されていない。とくに、ネットショッピングの場合、買い物の客は直接店にスマホ決済でお金を払うのではなく、いったんネットショッピングの運営会社(たとえばアリババの淘宝)にお金を預けて、買った商品が届いてから、淘宝に買い物の店への支払いを指示するという二段階の支払いになっている。要するに、ネットショッピングの決済システムは性悪説を前提にして設計されたもので、詐欺などに騙されにくい。

 日本では、こういった決済システムの多くは性善説を前提に設計されているため、ときには詐欺事件が起きる。最近は、携帯電話会社のアカウントが悪用され、それにリンクしている銀行口座からお金をだまし取られる事件が起きた。

 こうしたなか、中国政府は新たな決断を下した。それはデジタル人民元を試験的に発行することである。ここでその意味と狙いを検討してみよう。

 上で述べたように、既存の紙幣の短所を克服する点において、デジタル通貨の発行は画期的なことといえる。そのうえ、デジタル通貨は持ち運ぶ必要性がないため、利便性が高い。また通貨当局にとっては、紙幣に比べて人々の消費行動と貯蓄行動をはるかに把握しやすいため、より有効な金融政策を実施することができるようになると考えられている。さらに、中国国内の贈収賄を抑制するうえでも、デジタル人民元が重要な役割を果たすと期待されている。

 むろん、課題もある。ブロックチェーンなどの技術開発が道半ばにあるなかで、キャピタルフライトやハッキングのリスクを孕んでいる。ネットショッピングのスマホ決済は二段階の支払いになっているが、デジタル人民元が導入された場合、それに関する不正アクセスをいかに防ぐかが課題である。

 こうしたなかですべての取引がデジタル人民元に移行するのはもっと先のことだろうが、それが実現すれば、取引にかかわるすべての個人情報が通貨当局と政府当局によって把握されてしまうことになる。プライバシーをいかに保護するかという新しい悩みが浮上してくる。要するに、政府にとってデジタル人民元の導入は都合のいいことだろうが、その利用者の個人にとって必ずしも安心できない事情がある。

 中国の若者に対する調査では、多くの若者はデジタル人民元の利便性を理由にそれを使うと答えているが、約3割の若者は日常的に使うカネはデジタル人民元を利用するのに対して、投資などのカネはデジタル人民元の利用を控えると答える。理由は自分の投資行動を政府によって知られるのがいやであるということである。

 こうしてみれば、中国はいち早くデジタル人民元を試験的に導入しているが、かなり長い期間において現金とデジタル人民元が併存することになると思われる。また、高齢者にとってデジタル人民元の利用は依然としてハードルが高いものである。

 最後にデジタル人民元の導入と人民元の国際化との関連性について述べておこう。

 一般的に通貨の国際化の意味について、一つは国際貿易などの決済通貨としての役割である。もう一つは貯蓄通貨としての機能である。人民元は貯蓄通貨として国際化する可能性がまだ高くない。海外の投資ファンドや個人はポートフォリオに人民元建て資産を増やす前提として、中国に対する信頼を高めないといけない。

 現段階で、おそらく人民元の国際化の可能性が高いのは国際貿易の決済における人民元のウェイトを高めることである。中国はすでに世界有数の貿易大国である。その決済は依然ドルに頼っている。したがって、国際貿易の決済において人民元のウェイトが高まる可能性があり、デジタル人民元が正式に導入されれば、東アジア地域を中心に人民元のウェイトが高まるかもしれない。これこそが中国政府のデジタル人民元を導入する狙いと思われる。

 新型コロナ危機によって中国人観光客は海外旅行ができなくなった。しかし、危機はいずれ去っていく。中国人観光客は今まで銀聯カードを使って買い物などの支払いをしていたが、近い将来、東アジアで直接デジタル人民元を使って買い物ができる日が来る可能性が高い。