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【20-013】『上海パノラマウォーク』と『上海ブギウギ1945』(その2)

2020年11月09日

和中 清

和中 清: 株式会社インフォーム代表取締役

1946年生まれ。同志社大学卒業後、監査法人や経営コンサルティング会社などを経て1985年、株式会社インフォーム設立、代表取締役。1991年から上海に事務所を置いて日本企業への中国事業協力に取り組むとともに、多くのの著作を発表して経済成長の初期から日本企業に市場の中国を訴え、自らも中国で販売会社をつくり日本製品の直接販売事業を進めた。また1994年に「上海ビジネス研究会」を設立するなど、長く日本の企業への中国ビジネス教育を進めた。
中国で出版された「奇跡 発展背後的中国経験」は2019年の国家シルクロード書香工程の"外国人が書く中国"プロジェクトで傑出創作奨を受賞。
また現在、"感動中国100"(kando-chugoku.net)にて中国の秘境、自然の100カ所紹介に取り組んでいる。

主な著書

  • 『上海投資戦略』(インフォーム、1992年)
  • 『中国市場の読み方』(明日香出版、2001年)
  • 『中国マーケットに日本を売り込め』(明日香出版社、2004年)
  • 『中国が日本を救う』(長崎出版、2009年)
  • 『仕組まれた中国との対立』(クロスメディア・パブリッシング、2015年)
  • 『中国はなぜ成長し、どこに向かうか、そして日本は』(クロスメディア・パブリッシング、2019年)他

その1 よりつづき)

夜来香ラプソディ

 そしてもう一つ、私が上田賢一さんと語り合いたかったと思うことがある。

『上海パノラマウォーク』には福沢諭吉の「脱亜入欧」について触れ、次のように書かれている。

「脱亜入欧から百年、私たちはいまや(脱亜入欧)ならぬ、(脱欧入亜)という言葉が好んで使われる時代に生きている。そして、私たちの旅も欧米が圧倒的多数といった時代は終わり、旅の関心はいまやアジアに向けられている。アジアの旅の魅力は、何といってもその皮膚感覚、身体感覚の心地良さだ」

『上海パノラマウォーク』が書かれた1986年は多くの日本人がそんな思いをアジアや中国に抱いていたと思う。日中平和友好条約が締結され、中国が改革開放に向かって走り出し、多くの人の目線もアジアと中国に向けられた。

 1989年には天安門事件があったものの、私もそんなアジアに吹く風を感じた一人であり、中国の風を自らの肌で感じたいと思い中国に入って行った。

 それは『上海パノラマウォーク』で書かれたように「あらゆる国籍、人種、民族の人間が混然一体となって同居した東洋とも西洋ともつかない不思議な街」。そこでは皆が「異邦人」である上海だからこそさらに強く感じられる風であったと思う。

 当時の私自身の心境も、まさに「両手を拡げ、鳥や雲や夢までもつかもうとしている」の「異邦人」の歌詞にある"子供達"の心、そのままだったように思っている。

 だが、私が中国と関わりを持って何年か後、そこで感じた風は、必ずしも「脱欧入亜」ではなかった。1990年代のしばらくはそのようにも見えた。だが私は次第に、中国に向かう風を引き戻す逆方向の風が作用していることを感じ始めた。そして21世紀に入るとその風はさらに強く吹いた。

 なぜ日本は「脱欧」ではなくても「「親欧入亜」「親欧入中」に向かいきれなかったのか。なぜ今も「嫌中」が続くのか。なぜ日本では中国を良く思わない人が多数を占めるのか。

 私は、そのことを上田賢一さんと語り合いたかった。しかし、それを考えるヒントが上田賢一さんの『上海ブギウギ1945』に書かれている。

『上海ブギウギ1945』には音楽家の服部良一さんがジャズに出会い、東洋的な日本のジャズへの思いを強くし、「山寺の和尚さん」「別れのブルース」を発表しで"ジャズの服部""ブルースの服部"と認められた経緯や、服部良一さんが初めて上海に行き杭州の西湖で作った即興曲の「中支の印象」が後に有名な「蘇州夜曲」になったことや「夜来香ラプソディ」の開催にまつわるエピソードが紹介されている。

 また『上海ブギウギ1945』では服部良一さんのジャズへの想いも次のように語られている。

「リズムとメロディーがうまく噛み合うことによってジャズは生まれるが、ジャズは非常に東洋的色合いの濃いものであり、日本人の心にぴったりと来るものがある。(中略)世界は変わり続けているというのに、センチメンタルで単調な民謡調、俗謡調の流行歌だけで、すなわち島国根性だけで生きていくのは、ぼくは嫌だ。だが、いたずらな外国音楽のイミテーションはいけない。哀感はアメリカにもドイツにもイタリーにもない日本独特のもので、これこそ日本人唯一の音楽的基盤であり、私たちはこれを大切に育てなければならない。それが服部さんの信念だった」。

 また『上海ブギウギ1945』では、服部良一さんと日本でも大ヒットした「夜来香」の作曲者の黎錦光さんとの出会い、そして終戦直前に上海の南京路にある大光明電影院で当時、日本と中国で銀幕のスターに駆け上がっていた李香蘭さんを招いて東洋一と言われた上海交響楽団の演奏のもと、服部良一さんがシンフォニックジャズへの思いを込めて演出と指揮をして開催された音楽会「夜来香ラプソディ」の開催のエピソードが紹介されている。魔都上海とジャズ、また大阪出身の気さくな服部良一さんの人柄や李香蘭さんの数奇な運命も『上海ブギウギ1945』を読むとわかり、非常に興味がひかれる読み応えのある本である。

 私は『上海ブギウギ1945』で紹介されている三人の言葉に、長年中国と関わり続けた人間として感慨深いものを持った。

 一人は服部良一さんが上海滞在時に上海での日本軍将校達との付き合いに閉口した事を思い出して語った次の言葉。

「彼らが国際都市上海を支配しているのかと思うと、ぼくはその品性の下劣さに腹が立ちました。日本人は中国で本当にひどいことをやっていましたよ。中国人を人間とも思っていなかった。ですから日本が戦争に負けた時、その復讐でぼくらは絶対に殺されると信じておったですね。しかし、寛大な中国人は日本人を許してくれたんですね。中国人はほんとうに心の大きな、やさしい人やとぼくはつくづく思います」。

 もう一人は戦後、音楽評論家、映画評論家として活躍し、当時、上海の映画会社「中華電影公司」の社員で服部良一さんと親しく付き合った野口久光さんの次の言葉。

「当時、日本人は中国人を見下していて、中国人に対して侮蔑的な態度をとる人が多かった。ぼくは同じ人間で、中国人が日本人より劣っているなんて、そんな馬鹿なことがあってたまるかと、中国人差別に強い反発を覚えていました。中国人は民族の自覚と誇りを持って、なおかつ大らかな暮らしをしていました。あの頃の上海には街全体に自由の空気があった。それに戦争中でインフレがひどくて誰もが貧しかったけれど、上海の人々はみんな大人でしたよ」

 いま一人は李香蘭さんである。李香蘭さん、本名、山口淑子さんは満州生まれで、当時暮らしていた奉天ラジオ局で13歳の時に「李香蘭」の名前で中国人としてデビューした。

 上田賢一さんは山口淑子さんにインタビューし、「李香蘭」の戦時下の悩みが『上海ブギウギ1945』で次のように語られている。

「私の活動の中心は、所属していた満州映画協会でした。監督とかカメラマンとかに日本人もいましたが、多くは中国人でした。彼らが働いているのは生活のためであって、けっして日本にいい感じを持っていたからではありません。パーティなんかの時に最後にご飯が出ますが、いっしょにいる中で日本人には白米が、中国人にはコーリャンが出るのです。そんな時、私は中国人の側に座りました。彼らはわたしが日本人であることはもちろん知っていましたが、わたしに何でも話してくれました。わたしたちが話している時、日本人がやってくると、彼らは急に話題を変えるのです。わたしは日本人につけばいいのか、中国人につけばいいのか、悩み続けていました」

『上海ブギウギ1945』には李香蘭さんが終戦の玉音放送を聴いて、上海のフランス租界の家を一人飛び出し、上海の街を感情のままに走り周って無我夢中で飛び乗った黄包車の上で、日本人なのに中国人女優としてデビューしてからの七年分の涙が一度に溢れて声を上げて泣いた逸話が紹介されている。その時、李香蘭さんは眼に映る街が紛れもなく中国の街であると思うと言い知れない感動が込み上げてきて、「昨日まで日の丸が掲げられていたビルに、今、中国の旗がはためいている。中国の大地に中国の旗が立つ、これで当たり前なのだ。いや、これが当たり前なのだ。これからは中国人も、日本人も、もう死ぬことはない」とそう思うと涙が止まらなかったと語った。

 また『上海ブギウギ1945』には李香蘭さんが終戦で日本に引き上げる船に乗り上海の外灘の岸壁を離れる時に「さようなら、わたしの母国」と呟いたと書かれている。上田賢一さんは「祖国日本と母国中国との間で引き裂かれ続けた山口淑子さんの女優(李香蘭)は終わった」と記している。

服部良一さん、野口久光さん、李香蘭さんの中国と中国人への思い

 服部良一さんは「寛大な中国人は日本人を許してくれた」と語り、野口久光さんは、「中国人は民族の自覚と誇りを持って、なおかつ大らかな暮らしをしていました」と語り、李香蘭さんは「わたしの母国」と語った。

 だが中国と中国人に対しそんな思いを持てた日本人はごく僅かだろう。多くの日本人は日本軍が中国の都市を占拠することに歓喜し、「日本人は白米、中国人はコーリャン」を当然のこととして受け止めていた。

 私は日本人の80%以上が中国を好まないのは、今に始まったものではなくずっと過去から日本人が中国と中国人に持ち続けている感情が現れているに過ぎないと思う。それが取りも直さず日本が「脱欧入亜」「脱欧入中」に向かっていけない一つの原因とも思う。

 なぜ今も、多くの日本人が中国を良く思わないのか、私はそれを政治的原因だけと思っていない。日本人が心の底から中国に親しみを持ち、理解し合うためには、かつて日本人が中国に残したもの、中国で行ったことと真摯に向き合わねばならない。私たち日本人がそれと向き合うには歴史が詰まった容器の重い蓋を開け、その中にあるどろどろとした汚いもの、触れたくないと思うものを引きずり出さねばならない。その中にあるのは紛れもなく過去の私たち日本人の醜い姿である。だが多くの日本人はそんなものは見たくもない。いまさら蓋をこじ開けて中身を見てどうするの、と思うだろう。歴史を知らない若者はともかくとしても、多くの日本人が持つその心理が「中国を良く思わない」の心の底に潜んでいると思う。

「中国を良く思わない」の心は実は、「過去の私たちの姿を見たくない」「私たち自身を良く思わない」の心理の裏返しではないかと私は思っている。殊にいわゆる日本の「右派」の中国への嫌悪感情や執拗な攻撃はそんな自らの姿を見たくない心の反動ではないかと思う。

 日本には中国や韓国にいつまで謝罪を続けるのか、もはや戦後ではないと言う右派政治家や言論人も多い。だが、いかに政治決着をしようとも容器の中にあるものが消え去るわけではない。

 政治と日本人の心、魂とは次元が違う事柄である。日本人の心、魂は政治よりもっと崇高で尊く、重いものである。日本人は子供の頃、悪いことをすれば素直に謝ることを両親や祖父母に言われ育った。その心や魂には右も左も真ん中もない。

 もう永久にそんな蓋は開けなくてもいいよ、もう謝らなくてもいい、もういいかげんにして、と相手が言うまで謝罪を続けるのが日本人の心、魂と思う。

 それこそが右派知識人が好む「武士道精神」なのではとも思う。

 言うまでもなく日本は長い歴史の過程で中国から多くのことを吸収し、日本人の生活、文化に取り入れた。

 私は昨年、新疆の吐魯番(トルファン)に行った。吐魯番には井渠(カレーズ)と呼ぶ2千年前に造られた上水道がある。万里の長城と並ぶ中国古代三大工程の一つで、地下に高さ1.5m~1.7m、幅0.7mほどの暗渠が掘られ、その長さは5~20㎞に及ぶ。新疆にはハミや和田(ホータン)などに全部で1,784本の井渠があり、総延長は5,272㎞になる。中国では2千年前にそんな上水道が整備されていた。

 漢字を初め日本が中国から吸収したものの価値は計り知れない。そんな国と国民に対し、服部良一さんが語ったように「中国人を人間とも思っていなかった」、野口久光さんが語ったように「日本人は中国人を見下していて、中国人に対して侮蔑的な態度をとっていた」。恥ずかしい限りである。

 そんな日本人の態度も劣等感の裏返し、その反動だったのだろうか。

 もちろん既に戦後70年である。中国人を人間と思っていないなどは遠い昔の話、戦時下の特異な話かも知れない。しかし蔑視の心は一部ではあろうが日本人の心の奥底に今も巣食っていると思う。

 私は中国と関わり30年以上経った。その間、中国に来るいろんな日本人も見てきた。その中には中国人に接する態度が横柄な人、威圧的な人も少なからずいた。欧米人に対してなら決してそんな態度は取らないだろうと思う日本人も少なからずいた。

 今も中国の話をすると、話も聞かずに"中国なんて"と否定する人が結構いる。

 前回の「日中論壇」で日本はアジアの国の矜持を持てず、日本人の魂は宙を彷徨っていると述べた。私は、見たくもないと思う自らの姿を直視することを避け、中国人や韓国人に侮蔑の心を持つ限り、アジア人、日本人としての魂も宙を彷徨い続けると思う。

 服部良一さんは日本人としての哀感を大切にしてアジア人として、日本人としてのジャズを求め続けた。政治も米国的視点で中国を異質な国と牽制するのでなく、アジアの国である日本の視点を持ち、一衣帯水の国としての中国を捉えなおすべきではないだろうか。そのためにも歴史の容器の中にある自身の姿に真摯に向き合わねばならないと思う。

 戦後70年、今こそ、「中国を良く思わない」と思う自らの心の底にあるものを見つめ、服部良一さん、野口久光さん、李香蘭さんが体験の中で語った言葉を噛みしめて中国や韓国を見る私たちの眼が正しいのかを問い直すべきとも思う。

 そしてそれを問い直すために戦後、中国が日本に対してとった二つの出来事を思い起こすべきである。そうすれば服部良一さん、野口久光さん、李香蘭さんの言葉が今を生きる私たちの胸に迫ってくるのでは思う。

 その二つの出来事の一つは、日中国交回復時の出来事である。1972年、日中国交回復交渉にあたり日本の国会議員、公明党の竹入義勝氏が周恩来総理と会見した時、周恩来総理が共同声明の草案を読み、「中国は日清戦争で賠償を払ったが、中国民衆はいかに苦しんだか。いかに過酷であったか。日本国民にそれを求める気はない。戦争の責任は国民にはない。一部の軍国主義者の責任だ」と述べた言葉である。私はこの周恩来の言葉は孔子の「己所不欲、忽施於人」(自分が望まないことは他にするな)に通じると思う。

 もう一つは、1950年にシベリア抑留者の960人が中国に戦犯として送られ「撫順戦犯裁判所」に収容された。また戦後に中国に残った「山西残留」の140人が「太源戦犯管理所」に収容された。彼らは周恩来の「戦犯といえども人間であり、日本人の習慣と人道を守れ」「制裁や復讐では憎しみの連鎖は切れない。20年後にわかる」という言葉で、人道主義のもと管理所で過ごした。中国人がコーリャン飯を1日2食しか食べられない中で、白米を食べて過ごしたと後に帰還者は語った。

 先に述べた李香蘭さんの回想は「パーティなんかの時に最後にご飯が出ますが、いっしょにいる中で日本人には白米が、中国人にはコーリャンが出るのです」だった。戦犯収容所での中国の対応とは逆の事を日本人は中国人に対して当然のごとく行っていた。

 1,017人の収容者のうち起訴されたのは政府と軍高官の45人、他は起訴免除で釈放され帰国した。起訴の45人も禁固8~20年の判決後、シベリア抑留の5年と裁判までの6年が刑期に入れられ、ほとんどが刑期満了前に帰国した。当時、日本人の満州国官僚トップの国務院総務長官は禁固20年の判決後、「病のため直ちに釈放」の宣告を受け、病室で号泣したと伝えられている。(NPO法人 中帰連平和記念館資料より)。

 服部良一さんは回想で「日本が戦争に負けた時、その復讐でぼくらは絶対に殺されると信じていた」と語っている。

 だが、中国での日本人戦犯裁判では一人の無期も死刑の判決も行われていない。

 やはり老子の「怨みに報いるに徳をもってなす」に通じるだろう。

 そしてもう一人の言葉にも思いを持つべきと思う。それは1983年に来日した胡耀邦が語った言葉、「全中国人民の共通の願い、つまり中日両国の善隣友好を長期にわたり、安定して発展させなければならず、子々孫々まで友好的につきあっていかなければならないという願いをたずさえてきた。(中略)いくらかの懸念や意見のくいちがい、歩調のそろわない点があらわれることは避けられない。だからこそ、我々は並々ならぬ努力によってうちたてられた友好関係をこのうえなく大切にする」である。

 侵略を受けた側の胡耀邦が「並々ならぬ努力での友好関係を大切に」と語った。いや私は"語ってくれた"のだと思っている。

 中国との相互理解のためには歴史の過程で何があったのか謙虚に学ぶことが一番大切と思う。ワイツゼッカー元独大統領の「過去に目を閉ざす者は現在も盲目になる」という言葉もある。中国にも「前事不忘 後事之師」という言葉がある。

 それは『上海ブギウギ1945』に記された服部良一さん、野口久光さん、李香蘭さんの体験や言葉に学べると思う。

 上田賢一さんがご存命ならこれらのことも共に語り合いたかったが、今はそれも叶わない。上田賢一さんのご冥福をお祈りします。

(おわり)