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【20-012】『上海パノラマウォーク』と『上海ブギウギ1945』(その1)

2020年11月09日

和中 清

和中 清: 株式会社インフォーム代表取締役

1946年生まれ。同志社大学卒業後、監査法人や経営コンサルティング会社などを経て1985年、株式会社インフォーム設立、代表取締役。1991年から上海に事務所を置いて日本企業への中国事業協力に取り組むとともに、多くのの著作を発表して経済成長の初期から日本企業に市場の中国を訴え、自らも中国で販売会社をつくり日本製品の直接販売事業を進めた。また1994年に「上海ビジネス研究会」を設立するなど、長く日本の企業への中国ビジネス教育を進めた。
中国で出版された「奇跡 発展背後的中国経験」は2019年の国家シルクロード書香工程の"外国人が書く中国"プロジェクトで傑出創作奨を受賞。
また現在、"感動中国100"(kando-chugoku.net)にて中国の秘境、自然の100カ所紹介に取り組んでいる。

主な著書

  • 『上海投資戦略』(インフォーム、1992年)
  • 『中国市場の読み方』(明日香出版、2001年)
  • 『中国マーケットに日本を売り込め』(明日香出版社、2004年)
  • 『中国が日本を救う』(長崎出版、2009年)
  • 『仕組まれた中国との対立』(クロスメディア・パブリッシング、2015年)
  • 『中国はなぜ成長し、どこに向かうか、そして日本は』(クロスメディア・パブリッシング、2019年)他

エトランゼの街、上海

 私はふとした縁でFM放送などのラジオ番組プロデュサーで文筆家だった上田賢一さんが1987年に書かれた『上海パノラマウォーク』(新潮社)と、ジャズをベースにした「蘇州夜曲」「東京ブギウギ」「銀座カンカン娘」、また「青い山脈」を作曲した音楽家の服部良一さんや女優の李香蘭さんについて、2003年に書かれた『上海ブギウギ1945』(音楽之友社)のことを知り、先日その二つの著書を読んだ。

『上海パノラマウォーク』は1930年代の「魔都」と呼ばれた上海について書かれている。その書き出しは「中華人民共和国の近代都市、上海と1930年代の魔都、上海のはざまで、上海の街を流れる時間は、ある時は未来へ、そしてある時は過去へ向かう・・。上海の街を歩きながら、そんな思いにとらわれるのはおそらく私だけではないだろう」である。

 私が上海の街と関係を持ったのは『上海パノラマウォーク』が書かれた4年後の1991年だった。『上海パノラマウォーク』は、私が上海と関わり始めた時に感じたこと、そしてその時に感じた上海の街の匂い、上海の街中を流れる空気の肌触り、上海エトランゼとも言われる異国情緒、そこで暮らす人々が醸し出す特有の情感を私の心に蘇らせた。

『上海ブギウギ1945』でも上田賢一さんは上海を次のように語っている。

「地球上のありとあらゆる国籍、人種、民族の人間が混然一体となって同居した東洋とも西洋ともつかない不思議な街。強烈なエキゾティシズムの匂い立つ街。そのエキゾティシズムが好奇心旺盛な世界中の旅行者たちを引き寄せて、さらにその度を増していく。この先どこへ行くのだろうと思われるほどのスリルを孕んで、アナーキーなまでの自由を謳歌しつつ二〇世紀前半を超スピードで疾走した街、上海」

 さらに『上海パノラマウォーク』には、次のようなことも書かれていた。

「ここでは人々の生活のほとんどが路上で行われている。家の前の路上で、女が炊事をし、そのそばで男が洗濯をし、戸口の横で子供が椅子に腰かけて本を読み、隣どうしの老人が竹のデッキチェアを寄せ合って話している。夕暮れから夜にかけてのそんな風景を私たちはすでに失くしてしまったのだ。とりわけ、夏の上海は美しい。夏の蒸し暑い午後が過ぎて、東から西へ、すなわち黄浦江方面から上海市街に向けて吹く川風が生い茂ったプラタナスの梢を揺らす頃。夕暮れの濃密な気配が地上にたちこめて、家々の裸電球のタングステンが強い光を放ち、光が夜の暗さを際立たせる。夜は暗い。このあたりまえの事実を私たちはもはや躰の感覚として失くしている」

 私は上海と関わりをもってすぐ、上海での仕事の足場を築くためにまず、二つのことを手がけた。一つは上海のある大学と合弁で中華レストランとそれに併設してブラジル系のファーストフードの店を作った。ファーストフードは私が合弁条件として、中華料理の店に加えファーストフードの店も出すなら契約すると話して、大学正門前の建物の2階で中華レストラン、1階でファーストフードの店を出した。

 ファーストフードはブラジルでそれを立ち上げ、成功している会社の経営者ご夫妻とその関係者にわざわざ上海に来ていただき店ができた。それはおそらく上海で2店舗目、全中国でも2店目のファーストフード店で、大学構内に調理工場を持つ本格的なファーストフード店だった。

 その頃、上海にある唯一のファーストフード店は人民広場のケンタッキー1号店だった。なぜブラジル系のファーストフードだったのか。それは1991年頃、私が上海と関わり始めてすぐに、ブラジリア大学建築学部長で教授をしていた知人に声をかけ、上海はこれから建築と設計の大きな市場になる。今なら歓迎されるので、今のうちに中国での足場を築くようにと説得して建築で有名な上海同済大学と上海の華東設計院と交流を持った。その縁だった。

 もう一つは、フランス租界の宋慶齢旧居に近い余慶路に1930年代に建てられ、当初は国民党が使い、その後は空軍招待所となっていた建物1棟を借り受け、それを日本や米国企業にオフィスとして賃貸して自らの事務所もそこに置いた。

 招待所は『上海パノラマウォーク』や『上海ブギウギ1945』が著す時代を象徴するような建物で、雰囲気のある木製の螺旋階段が4階まであり、1階ホールでは昔、ピアノが置かれ、ダンスパーティーが行われただろうと思える雰囲気のある建物だった。

 夏には建物が面する余慶路がプラタナスのトンネルになり、周囲のフランス租界の洋館とともにエトランゼの街を彷彿させる雰囲気が漂っていた。

 私は高いホテル代を浮かすために、夜は一人でその建物の空いている部屋に簡易ベッドを持ち込んで泊り、真夜中にトイレに行くのにミシミシと廊下の床が鳴っていたのを覚えている。

 その空軍招待所を借りる前、ここを借りてはどうかと案内された建物は蒋介石と有名な宋三姉妹の宋美麗さんが新婚時代を過ごした「蒋介石住宅」と呼ばれるフランス租界に建てられた由緒のある西洋建築の住宅建物で、あなたが借りるなら現在住んでいる上海音楽学院の校長先生には別のところに移ってもらうと言われたが、さすがにそれを借りてもどう使っていいかわからず断り、空軍の建物を借りた。

 当時は国家プロジェクトである上海浦東開発がスタートし、上海への海外の関心が急速に高まりつつあった。私もまたその開発の模様を日本に紹介しようと思い、「上海投資戦略」なるビデオ4巻を中国外事弁公室の協力のもと、上海浦東新区の外資企業一番乗りを果たした徳島のアイリス社の、今は故人となられた佐々木充行社長と共に作った。

 上海に対する海外の関心が高まる中で、上海ではまだオフィスが不足の状況だった。

 外資企業が借りることができるオフィスは聯誼大厦や瑞金大厦など一部で、その数も少なく、多くの機関、企業は限られた新錦江大酒店や上海商城などホテルやマンションタイプの部屋に入居し家賃も高額だった。

 余慶路のオフィスには中国の映画会社や米国企業、保険食品や電子ゲーム、情報サービスで成長しつつあった中国企業の巨人集団、また福井県の鯖江に本社のある野尻眼鏡やその縁で服部セイコー社、会計事務所のマイツ社などの日本企業もオフィスを構えた。野尻眼鏡は眼鏡フレームの製造会社であるが、上海で眼鏡の小売店も経営して日本小売業の中国進出の先駆的役割を果たし、当時の野原春加社長がほぼ毎月上海に来て陣頭指揮をとっておられた。さらにマイツ社も中国進出の日本企業への会計サービスの先駆者ともなった。余慶路オフィスに入居した中国企業の巨人集団はその後成長を遂げた。

 8年ほど前、上海郊外の松江にある同社の開発センターを訪れる機会があった。ゴルフ場より広いと思われるような広大な敷地一面に芝生が敷き詰められ、芝生に覆われた小山の地下に研究棟やオフィス、役員専用と従業員用の二つのプールやアスレチックジムが設置され、役員会議室の床は、透明のガラス張りで会議用の大テーブルの下に川が流れていたのが印象的だった。さらに案内された地下には美術館があり100ほどの展示画の全てが等身大の裸婦の絵で圧巻だった。その中には、文化大革命の禁制時代に秘かに書かれた裸婦の絵があった。巨人集団の経営者の史玉柱氏はその後、中国億万富豪に名を連ねた。そこで私は20年の歳月を感じると共に、中国の成長とともに成功した企業の中国ドリームを見る思いがした。

 1990年代は、鄧小平の南巡講話をきっかけに上海開発が進み、上海の街も急激に変貌し古い街並みも姿を消していった。それはまるで波打ち際の砂山が波に削られていくような速度だった。

 そして『上海パノラマウォーク』に書かれた路上の炊事風景も、洗濯風景も竹のデッキチェアも裸電球のタングステンの光も姿を消して行った。しかしそれでも1990年代にはまだ『上海パノラマウォーク』に書かれた下町は残っていた。そして私も『上海パノラマウォーク』を引き継ぐかのように、上海の下町風景に感動し、郷愁を覚えてよく見知らぬ迷宮のような路地に入り込んで懐かしい昔の上海の匂いをかいだ。

 2000年に黄浦区の古い石庫門住宅街の一角を改装して、今では世界的に有名になった現代感覚の新天地が完成した。その頃には上海ではオフィスビルが林立し始めて余慶路のオフィスも閉鎖し、私の事務所も上海の有名な観光名所である豫園のそばに変わり、事務所への通勤に新天地のある地下鉄1号線の黄陂南路駅で下車して事務所までの道のりを、わざと狭い路地を選びながら歩いた。

 超現代感覚の新天地と下町の路地、そこを歩く時間はまさに上田賢一さんが『上海パノラマウォーク」の冒頭で述べた言葉、「上海の街を流れる時間は、ある時は未来へ、そしてある時は過去へ向かう」だった。

 新天地はその建設途中から私も興味を覚えて日本企業に熱くその未来像を語り進出を勧めたこともあった。だが当時、新天地の周囲は真に『上海パノラマウォーク』に書かれた世界で、建設中の新天地の横にある住宅前の路上では炊事風景が見られた。

 後に私は著書『中国マーケットに日本を売り込め』で「上海で今や国際的な名所となった新天地の開発当初、そこから数十メートルも歩けば、弄堂と呼ばれる上海の下町で、家の物干し竿に干された赤いパンツが風になびいていた。カメラのズームのように新天地の未来に焦点を当てるか、赤いパンツに焦点を当てるかで、そこから見える中国は全く違って見えた」と書いた。

『上海ブギウギ1945』に書かれているように、上海の街はまさに「この先どこへ行くのだろうと思われるほどのスリルを孕む」街だった。私もそのスリルを味わいたくて1991年から約30年、上海の街と関わりを続けた。

 また『上海パノラマウォーク』にはこんなことも書かれている。

「かつてのパレス・ホテル、和平飯店南楼のダイニング・ルーム。私は友人と食事に入り、テーブルに座った。遠く、近く、話声がまるでBGMのように心地良く響き、私と友人はその独特の空気に奇妙な安らぎを覚えた。それぞれのテーブルに座っているのは、アメリカ人であったり、中国人であったり、ドイツ人であったりで、つまりは、私たちにとって、まわりはみんな異邦人であったからだ」

 まさに私がわくわくした上海の街は、上田賢一さんが感じた異邦人、エトランゼの街だった。私はよく香港にも行った。そして上海と香港ではそこで吸う空気も、触れる街の肌触りも違うと感じていた。そう、上田賢一さんが書いたように、上海では日本人も西洋人もアフリカ人も南米人も、皆が異邦人である。だが、イギリス統治の香港はイギリス然としている。澄ましながら訪れる人を見ているようでもあり、なんとなく落ち着かない。香港は、上海のように訪れる人、皆が異邦人という気楽さも、またアジアや中国的なにおいもあまり感じられない。上海ほどに、私たちを温かく包む街の雰囲気も無く、香港に行く度に、よそよそしく感じてもいた。

 そんな上海も今では摩天楼が立ち並び『上海パノラマウォーク』や『上海ブギウギ1945』の世界も消えつつある。

 残念ながらこの2冊の作者、上田賢一さんは今年の2月に他界された。もしご存命なら私は上田さんに、30年で大変貌した上海をどのように思っておられたのか、上田賢一さんの心に去来したものは何だったのか。ぜひそれを聞き、また『続、上海パノラマウォーク』に書いていただきたかったと残念な思いをしている。

その2 へつづく)