林幸秀の中国科学技術群像
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【22-13】【現代編16】シン=トゥン・ヤウ~中国系初のフィールズ賞受賞者

2022年06月16日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は、広東省に生まれ、香港で高等教育を受けた後、米国に渡って1982年にフィールズ賞を受賞した数学者のシン=トゥン・ヤウを取り上げる。

生い立ちと教育

 シン=トゥン・ヤウ(Shing-Tung Yau、丘成桐)は、新中国建国直前の1949年4月に、大陸南部にある広東省汕頭市に生まれた。汕頭市は、広東省の省都である広州市から約300キロメールほど東に位置し、福建省との境界に近い都市であり、1860年に外国に開放された港となって、名称も英語風にスワトー(Swatow)として知られるようになった。

 父は大学教員、母は地方名士の娘であり、いわゆる知識階級の家に生まれたが、経済的には恵まれなかった。生まれた直後に父が勤務の関係で香港に行き、ヤウも他の家族とともに香港に移住した。ヤウは香港培正中学に入学するも、14歳となった時父が突然亡くなった。さらに厳しくなった経済状況の中、ヤウは働きながら学ぶことを決心した。1966年に香港中文大学に入学したヤウは数学を専攻し、1969年に同大学を卒業した。

陳省身教授との出会い

 香港中文大学を卒業したヤウは、米国カリフォルニア大学のバークレー校大学院に留学し、当時同校の教授であった中国系数学者の陳省身に師事した。

 陳省身は1911年生まれで、南開大学および清華大学大学院を卒業後、ドイツのフンボルト大学に留学して博士号を取得し、1937年に清華大学の教授となった。第二次大戦中の1943年に米国に渡り、プリンストン高等研究所、シカゴ大学などを経て、1960年からバークレー校の教授を務めていた。ヤウを教えた後、陳省身は1985年に中国の天津に戻り、南開大学の数学研究所の所長となっている。この陳省身も、中国が生んだ世界的な数学者であり、専門は微分幾何学で、1983年には国際的な評価の高いウルフ賞数学部門を、中国系の数学者として初めて受賞している。

 ヤウは、陳省身の指導を得て数学的な才能を開花し、2年後の1971年に数学でPhDをバークレー校から取得した。

数々の数学的な成果を挙げる

 ヤウは、プリンストン高等研究所でポスドク研究を一年間行った後、1972年にニューヨーク州立大学ストーニーブルック校准教授、1974年にスタンフォード大学准教授となった。その後同大学の教授となり、1980年にはプリンストン高等研究所の教授となった。

 この頃ヤウは、イタリア系米国人数学者エウジェニオ・カラビ(Eugenio Calabi)が、1950年頃に予想した複素多様体に係わる「カラビ予想」の解決に取り組み、1977年にこれを証明した。

フィールズ賞受賞

 ヤウは1982年に、数学系のノーベル賞と言われるフィールズ賞を受賞した。すでにこのコーナーで取り上げた テレンス・タオ の記事でも述べたが、フィールズ賞はカナダ人数学者ジョン・チャールズ・フィールズ (John Charles Fields) の提唱によって1936年に作られた賞であり、40歳までの若い数学者の優れた業績を顕彰し、その後の研究を励ますことを目的としている。4年に一度開催される国際数学者会議 (ICM) において、2名以上4名以下の数学者に授与される。ヤウは中国系で初めての受賞で、その後も中国系オーストラリア人であるテレンス・タオ以外には、中国人や中国系の数学者の受賞はない。

 受賞理由としては、微分方程式、代数幾何学におけるカラビ予想などへの貢献が挙げられている。

その後も数々の国際的な賞を受賞

 ヤウは、1984年にカリフォルニア大学サンディエゴ校教授、1987年にハーバード大学の教授に就任している。1982年のフィールズ賞受賞後も、ヤウは着実に数学的成果を挙げ続け、数々の国際賞を受賞した。具体的には、1991年ドイツ・フンボルト賞、1994年スウェーデン王立科学アカデミー・クラフォード賞、2010年イスラエル・ウルフ賞数学部門などである。

 ヤウは1990年に、米国国籍を取得した。

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中国への貢献

 ヤウと新中国の関係は深い。文化大革命終了後の1979年に、ヤウは当時の中国数学界の重鎮であった華羅庚・中国科学院副院長に招聘され、中国に戻って中国科学院などで講演を行った。その後ヤウは、中国の若手の数学者の指導を積極的に行い、優秀な中国人の弟子を数多く育てている。この功績もあり、1994年に中国科学院外国籍院士に選ばれた。

 また、文革後中国各地に設置された数学系研究所の指導にも当たった。具体的には、1993年の香港中文大学の数学研究所、1996年の中国科学院晨興数学センター、2002年の浙江大学数学科学センター、2009年の清華大学数学研究センターなどである。

 さらに、香港財閥の支援を得て高校生などへの奨学金基金を設立したり、数学に興味を持つ若者を集めて研究会やシンポジウムの開催などを積極的に行っている。

 こういった功績を受けて、ヤウは2003年に中国政府から国際的な科学技術交流に貢献した人に授与される「中華人民共和国国際科学技術合作賞」を受賞している。

参考資料

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科学技術ニュース 2010年02月04日 数学の丘成桐教授 ウルフ賞を受賞

書籍紹介:近代中国の科学技術群像