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【19-08】中国を見る:策彦周良が見た明代の茶事

2019年5月15日

安琪

安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 副教授

2001.9--2005.6 四川大学中文系 学士
2005.9--2007.6 ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)歴史系
東洋歴史専攻 修士課程修了
2008.9--2011.6 四川大学文学・メディア学院 中文系
文化人類学専攻 博士コース
2010.9--2011.8 ケンブリッジ大学モンゴル中央アジア研究所(MIASU, University of Cambridge) 中英博士共同育成プログラム 博士号取得
2011.8--2013.11 復旦大学中文系 ポスドク
現在上海交通大学人文学院の副教授として勤務

 1537年(天文6年、明・嘉靖16年)、室町幕府の将軍・足利義晴により勘合貿易(日明貿易)の副使に任命された臨済宗夢窓派の僧、策彦周良(さくげん しゅうりょう、1501-1579、号は謙斎)は京都を旅立ち、正使に任命された湖心碩鼎(こしん せきてい)と共に明に向かう船に乗った。この船は博多港に停泊し、船荷を積み込んだ後も博多に9ヵ月間留まり、天文8年(1539年)初春にようやく明に向けて出発した。それから3ヵ月後に、寧波・定海港に到着した。天文16年(1547年)、策彦周良は正使として再び明を訪れたが、この回の朝貢は明の定めた朝貢貿易の期間に到達していない等の問題によって長引き、嘉靖29年(1550年)にようやく朝貢の任務を終え、帰国することができた。

 策彦周良は遣明使の日常の職務のかたわら中国の古寺名刹を参拝し、漢文典籍を収集し、その旅の途中で出会った地方の名士たちと交わりを結んだ。そして帰国後、漢文で『初渡集』と『再渡集』を著し、博多港を出発して明に到着し、北上して朝貢を行い帰国するまでの旅の見聞を記録した。この日記の体裁を用いた2冊の訪中記は、日本の朝貢使節が宗主国に滞在した期間中の、明・嘉靖年代中期の中国南方の社会生活や経済・外交関係の貴重な記録であり、日本の室町時代、すなわち戦国時代の日本人が持った中国に対する認識を映し出している。また、文中に15世紀中葉の中国人の衣食住に関する詳細な記録が数多く登場し、『大明会典』のような正史にも記されていない中日間の航路や港から京城(北京)までの具体的な経路や交通手段、明代の中国江南地方の都市生活等が記録されていることから、その史料的価値は非常に高いと言える。

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図1.策彦周良[1]

 明代における中日両国間の公式な交流は「封貢」(日本語でいう冊封関係)の形式で行われた。政治的に見れば「封」とは君主から臣下に授ける上から下への関係を意味し、「貢」は下から上への朝貢を意味する。しかし、物的流通の視点から見れば、両国の交流関係をより正確に定義する言葉は「勘合貿易」または「貢賞貿易」となろう。明代中期以前から行われた「無貢不市」の政策(「朝貢」行為があって初めて貿易が行われるという意)により、両国間の合法的な貿易は朝貢という政治関係と密接に結びつけられることとなった。このため、室町時代前期に勘合貿易を一手に担った室町幕府も、後期に同じくそれを引き継いだ大名のいずれも中国に遣明使を派遣する方式で「貢賞貿易」を行ったのだ。遣明使たちは使節として国書を手に海を渡り、室町幕府第三代将軍足利義満が初の遣明使を派遣した1401年から1547年に大内義隆が最後の遣明使を派遣するまで、合計19回の日明間の往来があった。策彦周良は正使・副使として明に2回渡ったが、これは日明間の公式外交としては、最後の2回の遣明使船にあたる。

 明代の公式な歴史の記録によれば、当時の中国の最高の統治者の策彦周良に対する印象は非常に良く、彼は徳に厚く、「通儒仏二教、能詩善書、言不妄発、動必循礼」[2](儒教・仏教の双方に通じ、詩も書も良く行い、発言に節度があり、行動はしきたりに従う)と考えられていた。こうして、徳があり、学識もあり、人柄も良かったことから、彼は自然に中国の文人たちから好まれるようになった。『初渡集』によれば、策彦周良は寧波から朝貢のために北京へと北上する途中で文人たちからの招待を頻繁に受け、詩文を吟じ、学問を論ずるさまざまな集会や宴席に参加した。この中では、さまざまな「茶会」が注目に値する。嘉靖18年6月26日、策彦周良はある私人の茶会に参加し、「午後携三英、宗桂扣国経之門......陳佳肴、点佳茗、将侑酒」[3](午後に三英と宗桂を連れて国経の門をたたく......すばらしい料理と良き茶、良き酒をふるまわれる)と記されている。またその3日後には延慶寺でも僧侶から招待を受け、「且進西瓜,煎北茶」[4] (西瓜を勧められ、北茶を煎じられる)とある。さらにこの年の11月に使節団が杭州を通過すると、当地の御史(ぎょし、当時の官職)が官吏を率いて茶の席を設け、「供煎茶」(煎茶を供した)との記録もある。これらの記載から、当時は「点茶」と「煎茶」の2つの茶の手法が流行し、明代の中国南方社会ではこれらが共存していたことが明らかに見て取れる。

 第一に、策彦周良の記した「点佳茗」(良き茶をたてる)とは、唐代にはすでに盛んだった「点茶」(茶をたてる)を指す。これは儀式化された茶の飲み方であり、「団茶煮飲法」(固形茶煮出し法)とも呼ばれた。ここで注目すべきは、唐代に使われた茶は現在よく見られるばらばらの茶葉ではなく、茶葉がしっかりと押し固められ、ひとかたまりとなった「餅茶」(緊圧茶)であることだ。元代の忽思慧が著した『飲膳正要·諸般湯煎』によれば、宮廷で使われた「茶餅」は白茶、竜脳、麝香を一定の割合で混ぜて作られたもので、重湯を粘着剤に使って「団餅」(固形茶)を作り上げ(「同研細、用香粳米熬成粥、和成剤、印作餅」)、高価なものは「竜団」と呼ばれ、その値段は金に相当した。宋代の蔡襄が著した『茶録』によれば、「点茶法」(茶の立て方)の手順は次のとおりである。

  1. 「餅茶」をあぶり、2回に分けて粉末状に挽いた(「以鈐箝之,微火炙干。然后碾碎。」)後に、「茶羅」(ふるい)を用いて茶の粉末を1回ふるう。
  2. 「茶盞」(ちゃさん)を火であぶってあたため、少量の粉末茶を「茶盞」に入れる。
  3. 茶瓶で湯を沸かし、「団茶」(固形茶)を粉末状に細かく砕いたものを茶盞に入れ、少量の沸いたお湯を入れてペースト状にする(図1)。
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    図1 河北宣化遼墓M10(遼代張匡正墓)前室東壁の壁画「備茶図」(1093年)[5]

  5. 片方の手で茶瓶の中の沸いた湯を茶盞にしきりに垂らし、もう片方の手で茶筅(ちゃせん)を持って茶盞の中の茶をたたくようにかき回して表面に白い泡が立つようにし、茶を点てる。
  6. この茶を点てる際にさらに塩や胡椒などの各種調味料を加えてから、杓子で碗に分けて飲む。こうしてできた茶は、濁りと粘り気のある滋養豊かな粥のような味わいとなる。

 西安法門寺の地下宝物殿から出土した唐代の茶具には茶碾(茶臼)、茶羅、塩台のような「点茶法」に重要な物が含まれていたことから、昔の飲茶法の物的証拠であると言える。宋・徽宗の時代(1082-1135年)になると、点茶法は細やかで完成された飲茶の美学へと次第に発展を遂げ、特に茶をたたくようにかき回す過程で形成される泡の視覚的美観が強調されるようになった。日本の「茶道」で採用されたのはまさにこのような点茶法であり、最も古くは永忠や最澄、空海ら、仏教を学びに唐に渡った高僧が日本に持ち帰った。その後、千光栄西が建久2年(1191年)に中国から茶の種を持ち帰り、背振山や拇尾山付近の寺院に植えた。栄西の記した『喫茶養生記』には茶の種類や点茶(抹茶)の製法が詳しく紹介され、日本の茶道の基礎を築いた。室町時代に入ると、栄西の点茶法が僧侶と庶民の双方の間で広く伝わる一方、千利休を代表とする茶道(抹茶道)が公家や武士・僧侶、豪商の間で評判となり、複雑な様式が確立され、各種流派に分かれ、豊臣秀吉ら大名の庇護を受けて社会的に高い栄誉を得ることとなる。

 第二に、策彦周良が『初渡集』に記した「煎茶を供する」は、「点茶法」でいう「散茶瀹飲法」(散茶=挽いて粉にした茶の煎じ方)とは異なる。陝西省の藍田呂氏家族墓M12から出土した銅製の渣斗に煎じた後の茶葉が40片あまり残っていた(図3)ことから、遅くとも北宋の末期には「散茶法」が出現していたことが分かる。「茶葉を火であぶり-臼で挽き-ふるいにかけ-湯を入れる」という4段階の飲茶の工程は大幅に簡素化され、新鮮な茶葉を固めて「団餅」(固形茶)にしたり、「団餅」を引いて粉末状にしたりするといった手順を踏むことなく、散茶を沸騰した湯に入れるだけで良いこととなった。このような茶の淹れ方は便利な上に、茶が元来持つさわやかな香りを保つ上でも良く、茶葉の形や茶の色味を直接鑑賞するのにも役立つ。こうして、「点茶」の繁文縟礼や過分な形式主義が捨て去られたことは、宋・明代における中国の飲茶史の一大革新と言える。

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図3 茶葉片が残っていた銅製の渣斗、陝西省の藍田呂氏家族墓M12から出土[6]

 それでは、「点茶」(茶を点てる)から「泡茶」(茶を淹れる)への変化はなぜ生じたのだろうか。その最も直接の後押しとなった要素は、明朝の統治者による政令であろう。明・洪武24年(1391年)9月、明の始祖、朱元璋は詔を発し、朝廷に毎年、貢物を献上していた茶商「罷造竜団」(「竜団茶餅の生産をやめる」ことを意味する屋号)に対し、新たに採用する方式に則った茶葉を貢物として献上することに改めるように命じた(「聴茶戸惟採芽以進」)。しかし、政令の発布から社会習慣の変化に至るまでにはある程度の長い期間が必要であり、明代中期以前は、唐・宋代以来続く点茶法はまだ歴史の舞台から退くことはなく、明代中後期以降になってようやく、中国江南地区で「散茶瀹飲法」が「点茶法」に取って代わって流行することとなった。明朝末期に相次いで登場した張源の『茶録』や許次紓の『茶疏』、羅凜の『茶解』等の茶書のいずれにも、散茶の殺青(さっせい:生茶を過熱し、茶葉中の酵素を失活させる技術)加工技術について詳細な記載がなされている。この時期に中国の南方で布教活動をしていたイタリア・イエズス会員のマテオ・リッチ(Matteo Ricci)も『中国布教史』の中で、当時流行した飲茶法について「把葉子放入一壷滾水,当葉子里的精華被泡出来以後,就把葉子濾除,喝剰下的水」[7](茶葉を沸いた湯の中に入れ、茶葉のエッセンスが抽出された後に茶葉を濾して取り除き、残った水を飲む)と記している。

 日本では、この新式の「散茶瀹飲法」は「煎茶」と呼ばれた。1654年、長崎の唐人からの招請を受け、福建省の黄檗宗の僧侶、隠元隆琦(1592-1673)が仏教を伝えるために日本に渡った。隠元禅師の到来は、当時の日本の禅宗における臨済宗と曹洞宗の2宗派の復興に大きな影響を及ぼし、彼が京都で建立した黄檗山萬福寺によって日本禅界で黄檗宗が開教され、「鑑真東渡」以来の中日両国の宗教界における大きな文化交流となった。隠元禅師の東渡に伴って日本に伝えられたものに、当時、中国で非常に流行していた「散茶瀹飲法」がある。これは、陶芸用粘土でつくられた筒形の風炉の上に風炉釜を乗せて湯を沸かし、沸いた湯を茶瓶に入れて茶葉を煎じ、抽出された茶を小さな茶杯に注ぎ、口をすぼめて吸うように飲む方式である。この一新された飲茶法は「煎茶道」と呼ばれた。18世紀末から19世紀初めになると、煎茶道は田能村竹田(1777-1835)や頼山陽(1781-1832)を代表とする文人墨客の手によって復興した。明治時代の美学者、岡倉天心(1863-1913)は『茶の本』の中で、茶道が表現するのは浪漫主義であり、明代の「瀹飲法」はより自然主義に近いと記した。「煎茶」は「点茶」のように厳格な手順や作法を守らなければならないのとは異なり、流派や師伝の系譜もなく、随意性が高い。しかし、千利休の伝統に厳しく従う「抹茶道」(点茶)から見れば、このように気ままな様式は、日本茶道で長年にわたって築かれたしきたりを攪乱するものであった。

 策彦周良の記録によれば、当時、公式の場でのおもてなしで流行した茶道の儀礼である「煎茶」は、洪武帝の詔令で定められた「散茶瀹飲法」と一致するものであるが、これに比べ、文人墨客らが非公式に行った宴席や集まりでは、古雅で煩雑な点茶儀式(「点佳茗」)がよく使われる飲茶法であった。なぜ、このように中国江南地方の名士たちは手間暇をいとわず、唐・宋代以来の古式ゆかしい飲茶法を取り戻したのであろうか。

 その理由は理解に難くない。飲茶は、香をたしなみ、書画を品評し、石を愛で、庭園を造り、芸妓を雇うことと同様に、士大夫(官僚知識層)の生活において最も美しく、文化的な雰囲気に富んだ一面として、当時の人々は考えていたためだ。16世紀の中国における唐・宋代の「点茶法」への執着は、まさに「明人好古」(明代の懐古主義)という社会的雰囲気の絶好の例であることが容易に見て取れる。

「好古」(懐古主義)は、明代の社会生活における明らかな特徴である。都市や町では骨董店の商売が繁盛し、知識人たちも「好古」や「師古」といった単語を自らの号に好んで使った。古代の文物や古い風習に対する偏愛は、明代中期から末期にかけて、士大夫たちがその階級や身分、地位を定義づけるための重要な尺度だったと言える。当時、活躍した阮葵生は、著書『茶余客話』の中で、「縉紳」(身分と教養を伴う士大夫)となりたければ、3つの高尚な技能である「窮烹餁、狎優伶、談骨董」(食をきわめ、役者と親しくし、骨董を論ずる)を身につけなければならないとし、美食と音楽、古董の鑑定を得意とする者のみが高貴な身分の人々と悠然とつきあうことができる(「三者精、可以抵掌公卿也」)と記した。明代末期の文物鑑賞の世界で使われた語彙体系において、古代文物に対応する美学概念には、「精、雅、奇、巧、佳、韵、清、樸」があった。なかでも「雅」(または「古雅」)の登場頻度が最も高く、美学における究極の価値とされた。この視座から『初渡集』に記載される2つの茶の淹れ方を振り返ると、士大夫に広く人気のあった点茶法は、当時の評価体系においては朝廷側が公式に推賞した煎茶法よりも評価が高かったことが容易に分かる。その理由は、点茶法は懐古主義的な心情や過去の生活に対する趣向を表現するだけでなく、排他的な文化的身分をも象徴的に暗示しているからで、そうすることによって、士大夫的な趣向に強い憧れを持つ行商人や成金、朝廷の下級官吏などを真の「紳士」社会から排除することができたためである。茶をたしなみ、酒を飲み、書画を鑑賞するといった社交活動の面においては、遣明使は国家から派遣された使節だったために、彼らの活動は中日両国の官辺から多くの制約を受けていたが、文化交流の面においては、政治的な齟齬も文化交流の流れを止めることはなかったと言える。


[1] 画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Saku-gen.jpg?uselang=ja

[2] 朱亜非『明代中外関係史研究』,済南:済南出版社,1993年,165ページ。

[3] 『初渡集』嘉靖18年6月26日条,『大日本仏教全書·游方伝叢書四』,169ページ。朱莉麗『行観中国:日本使節眼中的日本社会』,上海:復旦大学出版社,183ページより再引用。

[4] 『初渡集』嘉靖18年6月26日条,『大日本仏教全書·游方伝叢書四』,170ページ。朱莉麗『行観中国:日本使節眼中的日本社会』,上海:復旦大学出版社,182ページより再引用。

[5] 画像出典:賀西林、李清泉『中国墓室壁画』,北京:高等教育出版社,2009年,277ページ。

[6] 画像出典:浙江省博物館,展覧会『長物為伴:宋明文人的雅致生活』,本稿筆者撮影。

[7] 利瑪竇(マテオ・リッチ)『利瑪竇中国札記』,何高済、王遵仲、李申訳,何兆武校,北京:中華書局,1983年,17ページ。