林幸秀の中国科学技術群像
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【21-32】【近代編25】厳済慈~中国科学院傘下の2大学の発展に貢献

2021年12月06日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は、物理学者として業績を挙げるとともに、中国科学院傘下の2つの大学の発展に大きく貢献した厳済慈(げんさいじ)を取り上げる。

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洋画家徐悲鴻による厳済慈のスケッチ

中国科学院傘下の大学

 中国科学院は、傘下の100以上の研究所に約7万人の研究者を擁するとともに、功成り名を遂げた著名研究者を顕彰する院士制度を運用している世界最大の科学技術機関の一つであるが、それに加えて後進の研究者育成のための大学も有している。具体的には、安徽省合肥の中国科学技術大学、北京の中国科学院大学、上海の上海科技大学(上海市との共同所管)の3校がある。厳済慈は、中国科学技術大学と中国科学院大学の2つの発展に貢献している。

生い立ちと教育

 厳済慈は1901年に、上海の南西に位置する浙江省の東陽の農家に生まれた。厳済慈は、地元の小学校や中学校で学ぶが、数学の成績は抜群で、中学校3年生の時には校長の命により休んだ教師の代わりに後輩の1年生の授業を行ったという。

 1918年に、江蘇省南京の南京高等師範学校に入学し、同校が東南大学となった1923年に物理学修習により理学士を取得した。

フランスに留学

 1923年、厳済慈は、自費や恩師からの資金援助によりフランスのパリに留学し、ソルボンヌ大学に学んだ。翌年には学士号を、1925年には修士号を、さらに1927年には理学博士号を取得した。博士課程での指導教官は、光学研究で現在も用いられているファブリ・ペロー干渉計を発明したシャルル・ファブリ博士で、博士論文のタイトルは「電場下での石英の変形と光学特性変化に関する研究(deformation and change of optical properties of quartz in an electrical field)」であった。

北平研究院物理研究所所長に就任

 厳済慈は博士号を取得の後に帰国し、いくつかの大学で教鞭を執り物理学や数学を教えた後、1931年に北京にあった北平研究院の物理研究所所長となった。厳済慈は、光学を中心とした物理研究を続行するとともに後進の指導に当たったが、とりわけ有名な弟子は銭三強 であり、彼のフランス留学の後押しもしている。

 1937年に日中戦争が勃発すると、北京にあった物理研究所での研究続行は不可能となり、厳済慈は西南部の雲南省昆明への疎開の指揮を執った。日本の敗戦後、物理研究所は再び北京に戻り、厳済慈は研究を続行した。1948年には中国物理学会の会長に選出されている。

新中国建国後、中国科学院へ

 1949年に中華人民共和国が建国されると、厳済慈は中国科学院の弁公庁主任兼応用物理研究所所長となった。1955年に中国科学院の学部制度(現院士制度)が創設されると、厳済慈は技術科学部の主任を務めている。

中国科学技術大学の教授、副学長に就任

 新中国建国の際の科学技術分野の大きな課題は、人材の不足であった。清朝末期から中華民国の時代に北京大学や清華大学はすでに存在していたが、建国時の膨大な技術者などの養成に対応するには高等教育システムが貧弱であった。

 中国科学院は、ソ連に専門家を派遣するなどして調査を進め、1958年に同院内に大学を設置することとして、中国共産党中央の了承を得た。その後準備作業が急ピッチで進められ、同年9月中国科学技術大学が北京市の西郊外にある玉泉路に開学した。第一期生は1,600人で、中国科学院の郭沫若 院長が学長を兼任した。

 厳済慈は同大学の設立準備委員を務め、1958年の設立後は銭学森 ・華羅庚 らとともに教授となり、物理学を教えた。1961年には教務担当の副学長となり、郭沫若学長を補佐した。

文革の混乱

 文化大革命が始まると、中国科学技術大学はその影響を大きく受けることになる。1966年には学生や大学院生の募集が停止され、さらに1969年には当時の指導者である林彪の指示により、北京市外へ移転することとなった。河南省南陽、安徽省安慶を転々としたのち、最終的に安徽省の合肥に落ち着いた。また所管する組織も、まず安徽省に、続いて第三機械工業部に変更となり、1973年に再び中国科学院の管轄に戻った。

 この間、失脚状態にあった郭沫若学長に代わって、中国科学技術大学の難局打開の指揮を執ったのが副学長の厳済慈である。移転中、教学用の設備類はほぼすべてが廃棄され、教職員の三分の一が流出し、いくつかの専攻分野が廃止となった。

 このような大学運営の苦労に加え、厳済慈は次男の厳双光を文革の暴虐で失う。厳双光は、南開大学出身で航空機設計者であったが、1971年に蘭州の空軍司令部で文革革命派により撲殺されている。42歳であった。

文革後に中国科学技術大学学長に就任

 文革終了後、中国科学技術大学は漸く落ち着きを取り戻した。1978年に郭沫若が病死したが、厳済慈はそのまま副学長を続け、1980年に第二代学長に就任した。5年後の1985年、84歳となった厳済慈は学長を退任し、名誉学長に就任している。中国科学技術大学は、その後も発展を続け、科学技術分野を中心とした大学として、北京大学や清華大学と並ぶ高い評価を国際大学ランキングなどで得ている。また、このコーナーで取り上げた量子科学者で中国科学技術界の期待の星である潘建偉 も、同大学の卒業生であるとともに現在同大学の副学長を務めている。

中国科学院大学の基礎を構築

 厳済慈は、中国科学院傘下のもう一つの大学である中国科学院大学の創設に大きく貢献している。

 中国での人材教育では、大学だけでなく国立の研究機関において大学院教育が行われていることにその特徴がある。これは旧ソ連の制度を導入したものであり、研究機関の研究員が指導教官となり、共に実験室などで研究を行いつつ大学院教育を施すのである。中国科学院だけでなく、中国農業科学院、中国医学科学院など大きな研究所でこの制度が実施されている。

 中国科学院では、発足直後の1951年夏に傘下の研究機関に研究生を受け入れたことに始まり、以降1965年までの受け入れ研究生は1,518名に達した。その後、各研究機関に散らばった研究生を一堂に集めた教育を実施する「研究生院」を立ち上げる試みがなされたが、文化大革命の混乱の中、研究生受け入れそのものが1966年に中断した。

 文革終了後、研究生受け入れが再開され、研究生院が1978年に北京で設立されたが、その初代院長となったのが厳済慈であった。厳済慈は、すでに述べたように1980年に中国科学技術大学第二代学長となり、1985年には研究生院院長と中国科学技術大学学長を退任している。

 この研究生院はその後発展を続け、2001年に「中国科学技術大学研究生院(北京)」という大学院教育中心の大学となった。さらに2012年には、「中国科学院大学」と名称が再度変更され、2014年には同大学は本科生(学部学生)を募集することとなった。現在、この中国科学院大学は中国科学技術大学と並んで、中国屈指の高いレベルの大学となっている。

米国との協力推進

 また厳済慈は、文革後の1979年にノーベル賞学者の李政道 が鄧小平に提案した、「中米渡米物理専攻大学院生共同募集(CUSPEA)」事業の推進にも貢献している。この事業は、物理学を学ぶ大学院生を中国国内で募集し、米国の有名大学で博士課程を履修させるもので、中国国内の窓口が中国科学院であり厳済慈がその責任者であった。この事業では、1988年までに計918名の物理専攻大学院生が米国で学んだという。

晩年

 厳済慈の中国科学技術大学への強い思いは名誉学長となってからも衰えず、国の科学技術全体の第8次五カ年計画(1991年~1996年)において、同大学が重点校に位置づけられるよう、自ら江沢民総書記ら共産党幹部に手紙をしたためている。

 1996年、厳済慈は北京で逝去した。96歳の大往生であった。

参考資料