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【19-09】近代中国語における日本語由来の外来語に関する研究

2019年6月7日

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院 副教授

中國山東省聊城市生まれ。
2003.9-2006.6 山東大学文史哲研究院 修士
2007.9-2010.9 浙江大学古籍研究所 博士
(2009.9-2010.9) 早稲田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11-2013.3 浙江大学哲学系 補佐研究員
2011.11-2013.3 浙江大学博士後聯誼会 副理事長
2013.3-2014.08 山東大学(威海)文化伝播学院 講師
2014.09-現在 山東大学(威海)文化伝播学院 准教授
2016.09-2017.08 早稲田大学文学研究科 訪問学者
2018.10-2019.01 北海商科大学 公費派遣

 中国語における日本語由来の外来語に関する学術研究は、そのような言葉が大量に伝わってくるにつれて発生した。中国国内では、20世紀初頭における善悪論争と初歩的な整理から始まり、20世紀中頃には判定に関する議論と属性研究が行われ、1970年代後半からはじまる改革開放後にはさらに言語学や文化学など多くの分野における掘り下げた研究にまで広がった。中国国外において、もう一方の「当事者」である日本はこのテーマを非常に重視した。中国の学術界が「外来語」という共時的言語学概念に注目したのに対し、日本の学術界はこれを「中日言語交流史」に組み入れて通時的に考察する傾向が見られる[1]

 中国語における日本語由来の外来語とは、日本語の語彙系統から直接中国語の語彙系統に入った語彙を指す。流入した数から見ると、その発展は3段階に分けられる。第1段階(4世紀前後~19世紀中頃)は古代の中日言語・文字交流からアヘン戦争勃発までである。この期間は中国語の日本への伝播が主であり、特に漢字の伝播が最も影響が深く、その後の2つの言語の密接なつながりの基礎となった。この間の日本語の伝播は、ほぼ日本語を音訳して漢字で記述する形式で、数は少なく、体系を成すには至っていない。

 第2段階(19世紀中頃~1970年代末)では、日本の甲午戦争(日清戦争)が封建時代の中国に重大な損害を与えたと同時に、中国人が受動的もしくは主体的に西洋の先進文化を学ぶ重要なルートとなった。戊戌の変法が進められる中、新しい制度や事物を表現する日本語の語彙が大量に中国に流れ込み、次第に中国語の語彙系統に入り、中国語における日本語由来の外来語流入の最初のピークが出現した。その後、日中は断続的な侵略と反侵略戦争に陥り、積極的な文化交流はほぼ停滞した。

 新中国成立(1949年)後、今度は「親ソ反米」の政治的原因により米国陣営に属する日本との国交断絶状態が続き、中国語における日本語由来の外来語の導入は「谷間」の時期に入った。中日国交正常化と改革開放の波が中国全土を席巻するに至って、中日間の経済や政治、文化などの交流はようやく新たな段階に入った。次いで到来した21世紀には情報化時代が始まり、日本の漫画やドラマ、バラエティー番組などが大々的に中国に入ってきた。日本語の語彙はインターネットの後押しのもと中国語との融合が加速し、中国語における日本語由来の外来語流入の第2のピークを迎え、また第3段階(1970年代後半から現在)と見なすことができる。

「中国への新語流入の潮流を前に、中国の学生・知識人や大衆の中には、喜んで受け入れる者もいれば、憤慨して極力排除する者もおり、ひいては同じ人でも受け入れと排除の態度を両方示す者までいて、意見はまとまらなかった。近代中国語の言語世界は二極化した。人々は『大半が日本から入ってきた』新しい名詞を広く使用する一方で、そうした『日本から入り込んできた新名詞』は覇権的な強い影響力を持つようになり、中国の伝統的な言語系統に打撃を与え、多くの中国人の反感と抵抗を生んだ[2]」。馮天瑜の研究によると、19世紀末にはすでに日本語由来の外来語を積極的に伝えた人々がいた。例えば、米国艦隊に同行し日本を訪れた羅森(「日本日記」,1853年)、駐日中国公使の何如璋(「使東述略並雑詠」,1877年)、日本を訪問した葉慶頤(「策鰲雑摭」,1889年)、駐日公使館参事官の黄遵憲(「日本国志」,1895年)などである。

 日本語由来の外来語語彙に対し明確に賛成の態度を取っていた人物の代表が戊戌の変法のリーダーだった梁啓超である。同氏は日本語を参考にして新語を作ることを主張し、日本語書籍を翻訳しその文勢を模倣することを提唱し、自身の文章にも日本語の名詞と文法を多く使用し、非常に影響力のある「啓超体」と呼ばれる文体を作り上げた。李運博の統計によると、梁啓超が使用したことで中国に入ってきた日本語由来の外来語語彙は141にも上った。日本語由来の外来語語彙に対して反対意見を持つ学者もまた全力を注いだ。日本遊学と日本語書籍翻訳の主要提唱者だった張之洞は、日本の新語が大挙して中国に入ってくる局面を迎え、自己矛盾した反発の態度を取った。張は日本語由来の外来語語彙を激しく攻撃し、「中国の学術の風習・教化もまた失われてしまうのではないか」(「奏定学堂章程・学務綱要」,1903年)としながら、その一方では時代の影響から逃れることはできず、論著の中で日本語由来の外来語を採用していた。日本に留学した彭文祖(「盲人瞎馬之新名詞」,1915年)は、日本語由来の外来語を使用する中国人を激しく攻撃し、そうした人々を「恥知らずだ」、「目が節穴で盲従している」と考えた。同様に警戒の観点を持っていた人物には、西洋の言語に精通していた辜鴻銘や章太炎などもいた。日本語由来の外来語に対する善悪の評価が分かれる中で、羅振玉(「訳書条議」,1902年)や王国維(「論新学語之輸入」,1905年)、胡以魯(「論訳名」,1914年)、朱自清(「訳名」,1919年)など、理性的で冷静な学者が現れた。彼らは排除も盲従もしないことを主張し、開明的な考えで中国語における日本語由来の外来語発展の基礎を固めた。

 日本語由来の外来語語彙の中国語への流入がすでに逆戻りできない趨勢になると、善悪論争は次第に少なくなっていき、学術界の議論の焦点は徐々に中国語における日本語由来の外来語の収集や整理、規範化へと移っていき、日本語由来の外来語を収録した辞書がいくつか相次いで出版された。典型的なものに、商務印書館「辞源」(陸爾奎、方毅,1915年)、上海南強書局「新術語詞典」(呉念慈、柯柏年、王慎名,1932年)、光明書局「現代語詞典」(李鼎声,1933年)、上海北新書局「新知識詞典」(顧志堅,1935年)などがある。そのうち、「辞源」は中国における近代初の大型語学辞典であり、近代の中日言語交流初期の軌跡が記録されており、中国語における日本語由来の外来語研究の重要なよりどころとなっている。これらの辞書の日本語由来の外来語の整理はまだ概括的なものだったが、その中国語への流入における大きな節目の意義があり、同時に後に続く研究のための貴重な資料となった。


[1] 森田聡「『現代漢語詞典』中的日語借詞研究」南開大学碩士学位論文,2016年

[2] 馮天瑜「清末民初国人対新語入華的反応」『江西社会科学』2004年第8期 pp.44-52.

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