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【20-05】中国古典学の視野から見た日本の近代儒学(二)

2020年2月28日

朱新林

朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院 副教授

中國山東省聊城市生まれ。
2003.9-2006.6 山東大学文史哲研究院 修士
2007.9-2010.9 浙江大学古籍研究所 博士
(2009.9-2010.9) 早稲田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11-2013.3 浙江大学哲学系 補佐研究員
2011.11-2013.3 浙江大学博士後聯誼会 副理事長
2013.3-2014.08 山東大学(威海)文化伝播学院 講師
2014.09-現在 山東大学(威海)文化伝播学院 准教授
2016.09-2017.08 早稲田大学文学研究科 訪問学者
2018.10-2019.01 北海商科大学 公費派遣

一、古代における日本の儒学

 日本の古代文明においては、主に木を刻み(刻木)、縄を結ぶ(結縄)ことによって事象の記録がなされていた。中国の後漢の時代に漢字が日本に伝わり、日本の言語に筆記媒体が提供されたことによって、日本文化が大いに発展した。福岡県で出土した「漢委奴国王印」は、日本で漢字が使われていたことが確認できる最も古い文物である。

 『後漢書』東夷伝、『三国志』魏志倭人伝、『梁書』倭伝等の文献の記述を総合すると、日本への「漢籍伝来」は、3世紀から5世紀までの間であることが推測される。『古事記』、『日本書紀』等の記述によれば、百済の国の賢人である王仁(わに)が『論語』等の若干の漢籍を日本に伝えた。埼玉県行田市の稲荷山古墳から出土した鉄剣には雄略天皇の和名が記された金象嵌の銘文が刻まれ、銘文の末尾には「書者(著者)、張安」という文言がある。熊本県玉名市の江田船山古墳からも雄略天皇の名が記された鉄剣が出土している。これらの出土品を見れば、雄略天皇の時代(456年~479年頃)には、日本の漢文文化は非常に高い水準にあったことが分かる。

 この頃から、日本は儒学等の漢文化の影響を真の意味で受け始め、特に聖徳太子の時代には儒学と仏教が指針とされた上に、法家、道家等の思想も吸収され、日本式の君主専制政治が確立された。聖徳太子はさらに隣国と善隣友好の政策を行い、まずは隋朝との外交関係を積極的に推進した。その後、遣唐使を派遣して中国からさまざまな文化的知識を吸収し、大量の経典と漢籍を日本に伝え、日本における律令制国家の形成と奈良文化の発展に確固たる基盤を築いた。

 日本は6世紀から9世紀にかけて中国文化を積極的に吸収して豊かな成果を上げ、法令制度を整備し、中央集権的な律令国家を確立した上に、経済・文化の繁栄も大いに促された。一方、大化の改新およびその後に制定された律令制度では仁義に基づく統治を行い、上下の身分の違いを定め、君臣の義を明らかにし、「父子の親」という儒家の学説を提唱し、それらが重要な鑑となった。大化改新期の執政に関与した高向玄理や僧旻は、聖徳太子によって留学生として隋に派遣され、23年もの長きにわたり同地に滞在し、中国の法令制度および儒家の典籍を熟知することとなった。また、日本の律令は、基本的にはすべて唐の律令制度を模範して作られたものであり、唐の律令は儒家の手により法律化された産物であることから、「得古今之平,一準乎礼」(儒学に基づく道徳規範と法律規範が統一され、古今において最も公平な法律)と見なされた。さらには、日本の『養老律令』と唐令に定められる大学の科目はほぼ一致しており、『老子』が削除されていることからも、儒家の仁義道徳がより重視されていたことが分かる。

 9世紀中葉以降、「唐風」は「国風」へと変わり始め、日本は中国文化の吸収を基盤としながらも、徐々に独自の文化を形成するようになった。平安中期以降、儒家の五経博士の職位は世襲化され、清原氏および中原氏の両氏によって掌握されたが、漢唐の注疏、文字訓詁の学の範疇を出ず、新たな思想や創見は生まれず、支配階級に限定された等の原因によって儒学の影響力は弱まり、その主流的地位は徐々に仏教に取って代わられた。儒学が再び日本社会で勢いを盛り返すには、新たな理論と新たな時代の条件を待つ必要があった。

二、江戸以前の朱子学

 鎌倉幕府の頃、中国の影響が日増しに強まる中で朱子学(中国では程朱理学)が日本に伝わり、それまで主流だった漢代から唐代の経学に徐々に取って代わるようになった。鎌倉時代に入宋した僧たちは仏教を学び、仏教の経書を集めたほか、儒学の経典も必携の文物であった。

 たとえば、鎌倉時代の僧であった俊芿は儒学の経典200冊を持ち帰り、円爾も何千巻もの典籍を日本に伝えた。円爾は宋学を初めて日本に伝えた人物であり、19歳にして孔老の教えを学び、北条時頼の要請に応じ相州において『大明録』を講義した。『大明録』は南宋の圭堂居士の著作であり、書中では程子、朱子、楊時、張栻の説が広く引用され、「居士は三教を信奉すべきであり、士農工商の日常生活から離れる必要はなく、孝悌(親に孝行を尽くし,兄に仕える)・忠信という儒家の倫理規範を遵守すべき」であることが主張された。当時、臨済宗、浄土宗西派、浄土真宗および日蓮宗等の仏教の宗派は、地方の領主や中央の朝廷と結びつきながら、あるいは下層民衆の推戴を受けながら、日本社会において主流をなす意識形態となっていった。そうとはいえ、「道統論」(儒学における聖人の道の伝授に関する議論)、「窮理尽性」(理を窮め、性を尽くす)、「居敬窮理」(いかなる時であっても意識を集中させ心を安静の状態に置くよう修養すること)と仏教の密接な関係や、仏教には現実的な統治理論が不足していたことによって、朱子学も徐々に僧侶の重要な学習対象となり、「道を助ける」道具として見なされるようになった。

 室町幕府の頃になると、五山の僧と幕府の関係が深まり、仏儒一致論がさらに盛んになった。たとえば、臨済宗の僧であった義堂周信は『萱斎詩序』の中で「夫孝者,儒釈二家皆重之,故儒有孝経以教之,釈則有戒経以訓之」(孝者は儒学と仏教をみな重んじるため、儒学にも孝の教えがあり、仏教にも戒めの訓がある)と述べている。五山の僧である虎関師錬、雪村友梅、義堂周信、中岩円月、雲章一慶、惟肖得巌らは儒学と仏教の両方に通じ、朱子学にも精通していた。

 五山で儒学が盛んだったことによって、朝廷の学者や公卿も刺激を受け、儒学、特に朱子学が発展した。明法博士の家柄、たとえば清原業忠や清原宣賢を代表とする彼らは、漢代・唐代の古い注釈に新たな注釈を補い、新旧が併存し、折衷する学風を築いた。一方、公卿の中では一条兼良が代表的であり、彼は朱子学と神道を調和させた上に、朱子学の新たな注釈に傾倒した。また、五山の学派はさらに薩南学派と南学(海南学派)という2つの独立した学派に分かれた。薩南学派の桂庵玄樹は僧であるが懸命に朱子学を提唱し、四書を神のように奉じた。南学の始祖である南村梅軒は、国を治める「道義の学」はすべて四書の中に備わっていると考えた。室町時代末期には朱子学を核心とする宋学の影響がますます大きくなり、江戸時代における日本の儒学の全盛に向け、基礎が築かれた。

 しかし、この時期の朱子学は、主に僧侶によって提唱された仏儒一致論の視野で、結局のところ仏教の従属物にすぎず、理論上は独創的な見解もなく、真の意味で独立して広く影響を及ぼすには、仏教に対していくらかの批判を持つ必要があった。また、仏教に対する批判や排除も単なる理論上の問題ではなく、現実的な基盤が必要であったが、それは、江戸時代の幕藩体制によって構築された。幕藩体制とは高度な集権的封建権力の形態であり、思想の面においても権力に対する信仰の優越性を否定し、封建統治を合法化する理論を確立する必要があった。

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