中国重点大学建設および戦略的な展開
2009年12月10日
張東海(ZHANG Dong Hai):
中国華東師範大学高等教育研究所 講師
男性、1978年8月生まれ。2005年、中国北京師範大学国際・比較教育研究所を卒業、教育学博士学位取得。2005年~2007年、華東師範大学高等教育研究所博士研究員。主な研究分野は学術制度史、科学技術政策・科学技術管理、高等教育国際比較。
要旨
中国の重点大学建設政策は新中国成立の初期からすでに始まっていたが、歴史的に見て、この政策は三つの段階に分けることができる。その政策目標も、「手本となる」大学の建設から「世界一流の大学の創設」へと変化してきた。重点大学の選択においては、政治的考慮とエリート主義が同時に並存し、重点大学政策のプロセスは政治プロセスと専門家の意見によるものであり、大学の持っている社会資源が、その大学が重点大学になれるかどうかをより大きく左右していた。この政策には問題もあるが、発展途上国として、先進国との差を縮めたいという全国民の願いにより、この政策はかなり長期にわたって継続される可能性がある。
中国の教育における重点建設政策の由来は非常に長い。上は大学、中は高等専門学校、下は高等学校に至るまで、いずれについても「重点」が論じられている。しかし、本論文の言う重点大学建設が指しているのは、政府の主導で、一部の大学を選んで重点投資を行い、政策的優遇を与え、それによって大学の運営の質と効果を高めることを目標とした、高等教育の重点建設政策のことである。選ばれて重点的に建設される大学は、中国の習慣上、「重点大学」と呼ばれている。
中国の重点大学建設政策は1954年に始まり、今日に至るまで延々と続いている。この政策は10年にわたる「文革」によって中断され、改革開放後に再び復活した。20世紀90年代以降、「211プロジェクト」と「985プロジェクト」のスタートにともない、重点大学建設政策には既存の政策を基盤として、さらに新しい特色が現れた。そのため、中国の重点大学建設政策は大きく三つの段階に分けることができる。すなわち、1954年~文革までが第一段階、1978年~1995年が第二段階、1995年~現在までが第三段階である。ある中国の学者は、この三つの時期をそれぞれ「スタート期」、「復活期」、「向上期」と名づけている。
1.1954~1966年の重点大学建設政策
1949年に成立した中華人民共和国は社会主義国家であり、歴史的な理由から、新中国は基本的に西側諸国との関係を断ち切り、ソ連モデルに基づいて新しい国家を建設することにした。そのため、建国の初期には、全国の各業種にソ連に学ぶという気風が溢れ、国の指導者も「ロシアを師としよう」と呼びかけるほどであった。高等教育の分野で、ソ連モデルに学んだ最も典型的な例は、20世紀50年代に発生した「大学と学部学科の調整」であり、重点大学建設政策はまさに、経済建設分野の高度な集権と高度な集中を特徴とする計画経済体制をまねて提起されたのであった。
新中国成立の初期は工業基盤が非常に薄弱だったため、この新しい国の創建者たちは、経済建設の当面の急務はソ連の重工業を中心とした工業化経済建設の経験を参考にして、重工業を優先的に発展させることだと考えた。この戦略の主張は「第一次五か年計画」に集中的に表れており、この国家経済建設の戦略計画は、ソ連の援助で建設するいくつかのプロジェクトを中心にして工業化建設を行う、ということを明確にしていた。
重点建設という構想はおのずと高等教育の分野にまで徹底され、それにより政策決定上の変化がもたらされ、全国の大学の中から一群の大学が選ばれ、重点建設が行われた。この政策の始まりの象徴は、1954年10月に高等教育部が公布した『重点大学と専門家の業務範囲についての決議』であるが、この『決議』では、中国人民大学、北京大学、清華大学、ハルビン工業大学、北京農業大学(現中国農業大学)、北京医学院(のちに北京医科大学と改称され、2000年に北京大学に併合)の6つの大学が全国重点大学に指定されており、これは中国の最も早い時期の重点大学名簿でもあった。
だが、初めての重点大学政策は長くは実施されないうちに、妨害を受けることになる。1958年以降、経済建設における「大躍進」の展開にともない、教育分野でも「教育革命」が始まった。この「教育革命」の実質は、それまでのソ連の教育モデルを捨て去り、中国の伝統的な民間の非正規教育の形態と、中国共産党の革命戦争時代における幹部学校の運営経験を参考にして、既存の教育モデルを改造しようという試みであった。その結果として、当初は中央政府各部門が主となって管理していた大学が大量に地方に移管され、一方、地方は高等教育の管理権を手に入れて、大量に大学を開設し、そのため高等教育分野に「大躍進」が出現するという事態を招いた。例えば、1957年には、大学は全国に200余りしかなかったが、1958年一年間だけで新たに800余りが建設された。
「教育革命」が所期の効果を上げないうちに、軌道に乗っていた高等教育は反対に破壊を被り、大量の質の低い、非正規教育の色合いを帯びた大学の存在が、高等教育の質を低下させた。わずか一年後、中国共産党中央は「強化、調整、向上」を指導方針として教育の整頓を行い、それ以前の非正規教育という方向を捨て去り、あらためて1954年の重点大学政策を採用した。1959年5月に中国共産党中央が公布した『高等教育機関の中に一群の重点校を指定することについての決定』では、16の全国重点大学が指定された。この16の大学の中には、1954年に指定された6つの大学がすべて含まれており、そのほかに追加されたのは、北京工業学院(のちに北京理工大学と改称)、天津大学、北京航空学院(のちに北京航空宇宙大学と改称)、復旦大学、上海交通大学、中国科学技術大学、西安交通大学、上海第一医学院(のちに上海医科大学と改称し、2000年に復旦大学に併合)、華東師範大学、北京師範大学であった。
この時の重点大学の再指定では、大学の質を高めることを非常に重視し、質を保証するために、これらの大学は中央の同意を得ることなく学校の規模や学生数を拡大してはならないこと、勝手に学科・学部を増減してはならないことまで定めた。その目的は、人力分配、専攻設置、資金分配の面での特別な厚遇によって、これらの大学の教育の質に、他の大学の発展の手本となり、助けとなるという確固たる保証を与えたいということであった。
その後、1959年8月、1960年、1963年に、中国共産党中央は重点大学の数を相次いで増やし、その数は68に上った。この重点大学68校の内訳は、総合大学14、理工系大学33、医薬系大学5、農林系大学4、財政・経済・政治・法律系大学3、軍事大学3、師範大学2、外国語大学2、芸術、スポーツ類大学各1であった。これらの重点大学は、北京市にあるものが最も多く、総数の39.7%に当たる27校、次いで上海市にあるものが13.2%に当たる9校で、その他の省の占める割合はいずれも5%以下であった。
しかしながら、この重点大学建設政策は長くは続かず、1966年、「文化大革命」の全面的展開にともない、全国の教育が成長のテンポを乱され、いくつかの重点大学は取消、併合の目に遭い、あるいは農村に移転させられた。大学も中高も小学校も授業がなくなり、教育事業は停滞に陥り、重点大学政策も中断を余儀なくされた。
2.1978~1995年の重点大学建設政策
1976年に「文革」が終結した後、中国の指導者は各方面の社会的秩序の回復に力を入れたが、当時好んで用いられた言葉が「撥乱反正(はつらんはんせい)」で、その意味は、それまでの混乱した局面を改め、一切を正常な状態に戻すということだった。高等教育分野の「撥乱反正」は比較的早く始まったが、それは文革後に復活し中央の事業を取り仕切った鄧小平のおかげであった。実際、鄧小平が復活後に主管したのは教育事業であり、彼は教育の「撥乱反正」によって、経済、政治、社会生活などの秩序回復のために道を開こうと試みた。教育事業を取り仕切るようになって以後の鄧小平の最大の行動は、十数年間中断していた「大学入試」――中国の大学統一入学試験を再開したことである。鄧小平は中央の指導者と「大学入試」再開について検討すると同時に、重点大学政策の復活についても考えており、それは彼の一連の演説の中に具体的に表れていた。
鄧小平の一連の演説の指示の下に、1978年2月、国務院は教育部の『全国の重点高等教育機関を復活させ適切に運営することについての報告』に指示を添えて各関係部門に転送し、重点大学政策を復活させた。この報告は全国88の重点大学を定めており、20世紀60年代の名簿よりも多少拡大していた。その後、60年代にすでに重点大学に指定されながら、「文革」の間に取り消されてしまった大学が運営を再開し、さらに国務院がいくつかの重点大学の追加を決定するなどして、1979年末までに、重点大学は全国で計97校となった。
あるいは、この時に定められた重点大学の数が多すぎて、「重点」の意味を真に体現することが難しくなったせいなのか、1983年、いくつかの重点大学の学長が連名で中央政府に対し、一部の大学を国家重点建設プロジェクトに選定し、集中的に投資を行うようにとの提案を行った。この「重中之重」(訳注:重要な中でも特に重要)と呼ばれた建設の提案は最終的に中央政府に受け入れられ、翌年には政策となり、15の大学が国家重点建設プロジェクトに加えられた。特異な点は、この15の国家重点建設の大学が、国民経済発展の「第七次五か年計画」に組み入れられ、国の巨額の投資を得たことであった。
この時の重点大学政策は50~60年代の重点大学政策の延長とみなすことができるが、異なる点は、この重点大学建設政策には学科の建設という内容が追加されていたことである。建国当初、中国の大学はソ連の大学モデルを真似していたため、大学の主な任務は社会建設の各方面で必要とされる人材を育成することであり、科学研究にはほとんど関与していなかった。1977年、鄧小平は重点大学の建設に関する何回かの演説の中で、重点大学は人材育成の中心になるとともに、科学研究の中心とならなければならないと指摘し、そこで、この段階の重点大学建設政策においては、大学の科学研究能力の確立が非常に強調された。特に、1985年に中国共産党中央が教育体制の全面的改革を行うことを決定して以降、大学の科学研究能力の確立は中国の高等教育体制改革の一つの重要な方向となり、そのために重点学科建設政策が打ち出された。
重点学科の建設は20世紀80年代以降の重点大学建設政策の重要な構成部分であった。その目的は、全国の大学のすでに博士号授与権を有している学科の中から、基盤のしっかりした、一定の特色を具えた、しかも最前線にある学科を選んで国の重点学科とし、中央財政がこれに重点投資を行って、これらの学科が現有の基盤の上に強化し、中国の大学の科学研究の水準を急速に高め、科学研究の人材予備軍として質の高い大学院生を育成するようになることを期待するというものだった。これは重点学科の建設を初めて重点大学建設政策の中に盛り込み、その中の重点部分としたということでもあった。その後の「211プロジェクト」と「985プロジェクト」はともにこのような政策構想の延長であり、重点大学政策はもはや重点のない大学の全体的条件の確立ではなく、世界の最先端に立つ見込みのあるいくつかの学科を特に重視して重点投入を行い、重点大学の一部の学科の科学研究・人材育成のレベルを高めることによって、大学全体の向上を促すものとなった。
3.1995年から今日までの重点大学建設政策
1995年以降の重点大学建設政策は、主に「211プロジェクト」と「985プロジェクト」から成っている。この二つの重点大学建設政策は、中国経済が再びハイスピードの成長軌道に乗った時に提起されたもので、当時の中国の指導者はより国際的視野を具えた構想に基づいて、大学重点建設の問題を考えた。新世紀の到来を前に、すべての中国人は、この新しい世紀に中国が清朝後期以来の世界に後れをとっている局面から脱却できることを切に希望し、その経済、科学技術、教育が先進国との差を少しずつ縮め、ひいてはいくつかの方面でリードできるようになることを望んでいた。「211プロジェクト」と「985プロジェクト」という二つの政策は、中国人全員が国家が強大になることを待ち望んでいるという文脈の中で生まれたものだった。
「211プロジェクト」という名称は当時の国家教育委員会(のちの教育部)が、新しい重点大学建設政策を提示した際に述べた目標――「21世紀に向けて、100余りの大学と重点学科を重点的に建設する」から来ている。「985プロジェクト」は1998年5月4日に、江沢民が北京大学創立100周年祝賀大会に出席した際の演説から生まれたもので、江沢民は演説の中で「現代化を実現するために、わが国は世界の先進レベルを具えたいくつかの一流大学を持たなければならない」と述べている。江沢民の演説後、教育部は非常にすばやい反応を示し、同年末には『21世紀に向けた教育振興行動計画』を発表。提起した目標は、10~20年以内にいくつかの大学と一群の重点学科を世界の一流水準にまで持っていくことを目指す、というものであった。
だが、二つのプロジェクトの建設目標には、それぞれ重点があった。「211プロジェクト」の目的は、国の重点投資によって、この100余りの大学の運営条件を改善し、その教育の質、科学研究水準、管理水準、運営効果を大きく引き上げ、これを基盤として、一部の重点大学と重点学科が世界の先進レベルに近づき、あるいは到達できるようにすることであった。したがって、「211プロジェクト」はこれらの選ばれた大学の運営条件の確立を非常に重視し、その第一期建設(1996~2000年)においては、計186.3億元の資金を投入して、大学の全体的条件の確立、重点学科建設、高等教育公共サービス体系の建設を行った。大学の全体的条件の確立というのは、重点投入により、大学の教育・科学研究のインフラを改善し、一群の優秀な学術人材と中核的教員を育成したいということであり、さらにこれらの大学が運営体制改革の面で現状打破の糸口を見つけ、他の大学が類似の改革を行う際の手本となることができるようにしたいということであった。重点学科建設とは主に、科学技術の最先端分野の高度な人材の育成を強化することであり、それは条件のよい一部の大学の中から、いくつかの重点研究基地――国の経済建設、科学技術の進歩、社会発展、国防建設等の分野に重大な影響を与える、当該分野の重要な科学技術の問題を解決することができ、しかも現状に突破口を開くような成果を上げる見込みのある重点研究基地――を選んで、人材育成の実験条件を強化し、学科の範囲を広げ、基礎の相互に関連した、関係の緊密な、資源が共有できる、特色と優位性を具えた一群の学科群・学科基地を作り上げ、それによって当該分野のハイレベルな中核的人材を持続的に育成する、ということであった。また、高等教育公共サービス体系の建設には主に、中国教育科学研究コンピューターネットワーク、図書文献保障システム、現代化機器設備共有システムなどの整備があった。
「211プロジェクト」の投資のは20世紀70年代以降の重点大学建設政策よりも大きかった。1979年に重点大学を指定した際には、べつに中央政府がこれらの大学に特別の投資を提供するという話は出ず、その後の「重中之重」建設政策においても、これらの大学に5億元の資金が提供されたにすぎなかった。おそらく中国の指導者は前回の重点大学建設政策の効果に満足していたわけではなく、重点大学に指定された大学が決して期待していたような質の向上をもたらさなかったため、「211プロジェクト」の実施に際して、投資を大きくしたのであり、したがって中国の大学の運営条件の改善は国の資金支援のおかげでもあったのである。
しかし、「211プロジェクト」は決して「世界一流の大学を建設する」というスローガンを明確に提起したわけではなく、世界の先進レベルまで持っていくという目標は副次的に据えられていたにすぎなかった。中国政府はこのプロジェクトを通じて、中国の大学が急速にレベルを向上させられるようにしたいと望んでいたわけではなく、その建設構想は依然として前の二つの重点建設構想の延長であり、国の援助によって、ごく一部の大学を人材育成、科学研究水準、体制改革などの面で一歩先行させ、他の大学の成長の手本にしたいと望んでいたにすぎない。一方、「985プロジェクト」は、「世界一流の大学」を建設しなければならないということをはっきりと提起していた。実際には、1999年に「985プロジェクト」をスタートさせた時、中国政府は二つの大学――北京大学と清華大学を指定しただけだった。この2校は中国の最も有名な、最もレベルの高い大学として、全国の大学の中でも特別な地位を有しているが、中国政府がこれらの大学のために設定した目標は「世界一流の大学を作る」こと、つまり、20年ぐらいの間に、この二つの大学をアメリカ、ヨーロッパ、日本のいくつかの有名大学と比肩し得るものにしなければならないということであった。
中国政府は当初、10の大学を選んで「世界一流の大学」にすることを望んでいたが、1999年末になって、9つの大学だけが「985プロジェクト」に選ばれた。北京大学、清華大学を除いた他の7校は、復旦大学、上海交通大学、南京大学、浙江大学、中国科学技術大学、西安交通大学、ハルビン工業大学であった。中国の高等教育界は一般にこの9つの大学を「2+7」と呼んでいるが、それは後ろの7つの大学は前の2校とはやや差があり、しかも中国政府が設定した目標も前の2校に比べて幾らか低く、「世界的に名の知れた大学」を作ることであって、「世界一流の大学」ではないからである。
「985プロジェクト」に投入された資金は非常に巨額であり、しかも、この名簿に入ることは政府の巨額の投資が得られることを意味するだけでなく、同時に大学の地位がより高くなることも意味していた。そこで、多くの大学がこの名簿に入ることを強く望んだため、「985」大学の陣容は絶えず拡大し、2003年には、計34の大学が「985」大学となった。この34の大学は「985第一期」建設大学と呼ばれた。さらに2004年から、中央政府は「985プロジェクト」第二期建設を実施し、「985」大学の数も39に増え、2006年には華東師範大学が最後の1校として「985プロジェクト」大学に加わった。
4.中国の重点大学建設政策の分析
三つの時期の重点建設政策の紹介を通じて、我々はこの政策の主な内容について理解してきた。歴史的時期の違いにより、中国が直面してきた経済・社会情勢は大きく異なるが、重点大学建設政策自体は継続性があり、しかも絶え間なく発展し続けてきたのである。
(1)「お手本」から「世界一流を作る」へ――求める目標の変化
以上からはっきりわかるように、中国政府が重点大学建設政策を推進しようとした最も重要な理由は、資金・政策面の特別な厚遇により、一部の大学を優先的に発展させ、全国の高等教育のために「お手本」の役割を果たさせ、重点大学によって他の大学の発展を促したいと望んだことであった。例えば、最初の重点大学建設政策では、重点大学に指定されたのはすべて、ソ連の大学モデルを真似ていちはやく改造を成し遂げた大学であり、国はこれらの大学がソ連の経験を学んで総括と普及を行い、他の大学のために手本を示してくれることを望んでいた。最も早期に指定された6つの大学のうち、ハルビン工業大学、中国人民大学はソ連の大学の管理制度と教育制度を参照して改革を行った典型的な大学であった。さらに国は、重点大学は必ず他の大学を助けなければならない、例えば、自分のところへ研修にやってきた他の大学の教員を必ず受け入れなければならないと要求したが、この政策は1979年の重点大学政策においても再度強調され、重点大学の必ず担うべき任務とみなされた。このような「お手本」としての役割は、重点大学が大学院生を育成して、他の大学のために教員を送り込まなければならず、また、他の大学と教材を交換し、教育経験を交流しなければならなかったことなどにも表れていた。
「211プロジェクト」は「質の向上」という目的が特に際立ってはいたが、この政策の基本構想は依然として前の二つの重点建設政策の延長であり、重点的支援によってこれらの大学を全国の高等教育機関の「高地」、すなわち水準のより高い一つのグループにすることを望んでいた。だが、「211プロジェクト」は明らかにそれらよりも国際的視野を具えていた。前の二つの重点大学建設政策の視野はより国内に限定され、その目的は重点建設を通じて、国内の一部の大学が頭角を現して他の大学の成長を引っ張っていくようにし、それによって中国の大学全体の水準の向上を促すということであり、べつに重点大学と世界の有名大学を比較するという考えはなかった。しかし、「211プロジェクト」にはすでに中国の重点大学と世界の有名大学を比較するという意図があり、人材育成、科学研究などの面で、中国の一部の大学・学科を世界の有名大学の水準に近づけたいと望んでいた。「211プロジェクト」重点建設は大学の数がかなり多く、しかも重点は運営条件の改善にあったが、重点学科の建設の構想はその後の「985プロジェクト」によって引き継がれた。「985プロジェクト」は主に中国の重点大学と先進国の有名大学の差を縮めるために提起されたもので、「世界一流の大学」または「世界的に名の知れた」大学という建設目標を非常にはっきりと打ち出していた。「985プロジェクト」においては、これらの大学を「お手本」大学にするという目標はすでに二の次となり、世界の有名大学に近づけることが主要目標になっていたと言える。この意味から言えば、「211プロジェクト」は「お手本を作る」重点大学建設政策から「世界一流の大学を作る」重点大学建設政策へと至る中間の段階であった。
(2)政治的考慮とエリート主義の同居――重点大学建設の対象選択についての分析
「大学と学部学科の調整」は実際には中国の高等教育システム全体について行われた再設計であり、できあがった新システムはソ連モデルを参照したものだった。この新しいシステムにおいては、教会大学も、私立大学も消え去り、全国のあらゆる高等教育機関が公立になり、中央政府によって管理された。高等教育機関の管理権はその後いくらか変わり、三段階運営・二段階管理の体制となったが、公立大学であれ、20世紀80年代以降に発展してきた民営の大学であれ、すべて必ず政府の管理を受けなければならなかった。したがって、本質から言えば、大学はすべて政府の行政管理の範囲内に組み込まれたのである。早期における政府の大学に対する管理は非常にきめ細かく、大学の指導者は政府に任命され、かつ国の役人とみなされて、一定の公務員等級区分があり、政府は大学の学部・学科設置、課程設置、教育計画、さらには教科書の使用についてまで細かな規定を制定した。1988年に『高等教育法』が公布されてから、大学の運営自主権は徐々に拡大し、事の大小に関わらず政府がすべてを一手に引き受けるという状況にようやく大きな変化が生まれた。そのような管理体制の中でも、大学間に自由市場型の競争体制があったわけではなく、各大学の運営の性質、運営目標、学生募集人数はすべて決められた計画にしたがって政府が規定し、教員の移動も政府の命令という形で行われ、市場経済体制の改革が行われた後に、ようやく多少の変化が見られるようになった。
したがって、容易にわかるように、中国の重点大学政策は政府の意思を非常に集中的に表しており、重点大学政策を実行するか否か、どのように実行するか、どの大学が重点大学になれるかといったことは、すべて自由競争の結果ではなく、教育行政部門または中国共産党中央により文書形式で指定されていたのである。
もちろん、政府の指定は一定の条件に基づいたもので、任意のものではなかった。例えば、1954年に初めて6つの重点大学を指定した際には、重点大学の三つの基本条件――教員・設備などの条件がよいこと、ソ連の専門家の指導と援助があること、教育改革にかなり顕著な成果と経験があること――が設けられていた。これはこの時の重点大学建設政策の目標と直接関連があり、この時の重点大学政策は実際上は高等教育分野にソ連モデルに学んだ典型を打ち立て、それを他の大学の改革のお手本にしようとしていた。いわゆる「教育改革にかなり顕著な成果と経験がある」というのは、ソ連に学ぶ上で成功したということを指しており、最も典型的なのがハルビン工業大学と中国人民大学で、この2校は最も早くにソ連に学んだモデルケースの大学でもあった。北京大学と清華大学がこの名簿に入ることにはまったく議論の余地がなかったが、それはこの二つの大学が中国の大学の歴史上、優劣のつけがたい最高の地位を有していたからであり、いかなる重点大学建設もこの両大学を避けて通ることは不可能だった。北京医学院と北京農業大学の名簿入りも中国政府の一種の政治的考慮を反映していたが、それは中国が農業国で、新中国成立後、大量の農業技術者を早急に必要としていたこと、同時に、旧中国は衛生事業の状況が相当にひどく、建国前の平均寿命がわずか35歳で、病気が蔓延していたため、医療衛生事業を強化し、人々の健康を保障することも新中国の重要な使命となっていたからであり、この二つの大学の名簿入りもまた理にかなった当然の成り行きであった。
重点大学を指定する際の政治的考慮は、大学の地域構造のバランスと科類構造のバランスにも反映されていた。地理、交通、資源などの面の理由から、中国には経済、文化、社会の発展水準がアンバランスな三つの地区が形成されており、その位置により、一般に東部、中部、西部地区と呼んでいる。東部は経済・文化が最も発達し、中部がこれに次ぎ、西部がさらにそれに次いでおり、高等教育の分野にも「東強西弱」の構造が出来上がっている。「大学と学部学科の調整」の際には、全国の高等教育の配置が大きく改善され、例えば、上海交通大学の大部分が西安に移転し、西安交通大学になるなど、多数の東部の大学が西部に転入し、同時に西部にもたくさんの新しい大学が設立され、西部の教育を充実させたが、しかし全体的に言えば、西部の高等教育はやはり東部、中部に劣っていた。そこで、西部地区の高等教育の発展を促し、西部の高等教育のレベルを引き上げるために、重点大学の指定にあたっては、薄弱な地区に相応に配慮し、西部地区に重点が置かれた。特に20世紀90年代以降は、中国政府の「西部大開発」戦略の展開にともない、西部の高等教育に対する支援も絶えず強化されてきた。「211プロジェクト」では、西部地区にあるいくつかの大学が重点建設名簿に入れられたが、学校の総合的実力によってランクをつけていたら、これらの大学は上位100校に入れなかったかもしれない。同時に、「211プロジェクト」大学の名簿は100校前後に維持しておかねばならないという前提の下に、名簿に入れる各省の大学数についても調整がなされ、教育部と中央の部・委員会所属の大学を除き、省管轄の大学は1校しか名簿に入ることができなかった。他方、浙江、北京、天津、上海、江蘇、広東の6省・市は経済の発展した省・地区として、2校の省管轄大学が名簿に入ることができた。これは中国のすべての省レベルの行政区域が、少なくとも確実に1校の「211プロジェクト」大学を持つようになったということでもあった。
「大学と学部学科の調整」はさらに中国の高等教育システムに独特の科類構造を作り上げ、高等教育機関は以下の計12類――総合大学、理工系大学、農業大学、林業大学、医薬系大学、師範大学、外国語大学、財政・経済系大学、政治・法律系大学、体育大学、芸術大学、民族大学に分けられた。もちろん、12類の大学は完全に科類に基づいて区分されていたわけではなく、例えば、総合大学、師範大学、民族大学は実際にはすべて文理科を主とした総合大学であり、その運営任務に多少違いがあるだけだった。例えば、師範大学は教員の養成を主とし、民族大学は少数民族地区のために専門技術者と幹部を育成することに特に力を入れていた。12類の大学はまた地区に基づいて配置され、中国の六大行政区域内に比較的均等に分布していた。20世紀80年代以降、中国の大学運営はますます総合化に向かい、現在ではすでに純粋の専門大学は極めて少なくなっている。だが、新中国成立以来の専門大学の存在は、専門大学とそれに関わりのある政府部・委員会または業界組織に利益集団を作らせてしまい、そのため、どの類の大学も重点大学名簿に各々の代表の名前が入っているという状態になり、ひいては、「211プロジェクト」、「985プロジェクト」建設においても、大学の選択の面で科類のバランスを考慮せざるを得なかった。
科類のバランスを考慮したとはいえ、これまでの重点大学建設政策の指定してきた重点大学がいずれも理工系中心だったことは否定できない。1959年に指定された16の重点大学のうち、理工系大学は56.3%を占め、1963年の68の重点大学の中では48.5%を占めていた。20世紀80年代の15の「重中之重」大学は、そのうち9校が理工系で、現在の39の「985プロジェクト」大学の中では、21校が理工系である。その理由は、新中国成立初期の工業国家の建設という必要性から形成された、専門技術者の育成を重視した高等教育の仕組みにあり、現在に至っても、基礎教育と高等教育には依然として理工系を重視し、人文系を軽視する傾向がある。
もちろん、重点大学の指定は決して政治的考慮だけに基づいていたわけではなく、そこにはエリート主義も含まれており、すなわち政策制定者が心の中で最も優秀だと思っている大学を選んで、重点的な投資と建設を行っていた。初期の「手本になること」を目標とした政策も、後期の「世界一流の大学を作ること」を目標とした政策も、ともに教員の力量、学科のレベル、大学の成長に必要なインフラのより整った大学を選んで、重点建設を行ってきた。これまでの重点大学建設政策が指定した重点大学は、その大部分が長い大学運営の歴史を持ち、運営水準が社会に公認され、大衆と政府の心の中に大きな賛辞を残している大学である。中国の重点大学の選択は、政治的考慮とエリート主義の結合による産物だったのである。
(3)政治プロセスと専門家の意見の結合――重点大学建設政策のプロセス分析
重点大学の選択は決して自由競争の結果ではなく、政府の指定という形で体現されていた。政府の指定はかなり複雑な政治プロセスであり、たとえみずから関与したとしても、必ずしも事の全真相を完全に描き出せるとは限らない。したがって、研究者がこの問題に触れることには、どうしても数々の困難があり、また大きな不安もあるように思われる。
中国華中科技大学の沈紅教授は、中国の重点大学の選択は、「それらの過去の名声と期待される貢献に基づいたもの」だとしている。もちろん、「過去の名声」は過去に国家のために果たした貢献の上に打ち立てられたものであり、過去の貢献とそれによって手に入れた名声を踏まえて、政府はおのずから、そのような大学は引き続き国家のために似たような貢献を行うこができるだろうと考え、そこでこれらの大学に重点投入を行うことをいっそう望むのである。重点大学になることは、政府のより多くの投資と関心を得、教員の配分、人員編成、大学の行政等級区分、学生募集などの面で優先権を持つことを意味しているだけでなく、それをもとにかなり高い社会的名声と社会的関心が蓄積されることになるため、「重点大学」の称号はすべての大学が手に入れたいと望んでいる。ある大学が政府の指定を得て重点大学になれるかどうかは、歴史的に蓄積された名声と期待される貢献のほか、大学の持っている「社会資本」、すなわち政策制定に影響を及ぼすことのできる色々な人物との関係の緊密度によっても左右されていた。まさに北京大学の陳学飛教授が「985プロジェクト」の政策プロセスを分析した際に述べたごとく、「985」大学になることを目指している大学の周りには、一つの政策支援同盟が形成されていた。この同盟を構成しているのは、影響力を持った同窓生、大学所在地政府の首脳、さらには大学と何らかの関係がある国家指導者といった、大学のあらゆる方面の利益関係者であり、「211プロジェクト」、「985プロジェクト」大学になるための申請をする時は、大学が様々な関係を使って施策決定者に働きかけを行った。特に目立ったのは、多数の大学が創立記念日という機会を利用して、国の最上層部の指導者を多数招いて出席してもらい、それにより中国の高等教育システムの中での自分たちの地位を社会に示すことによって、さらに多くの大学運営資源を勝ち取ろうとしたことである。実際のところ、「985プロジェクト」の起源は、当時の国家主席だった江沢民の北京大学創立百周年記念大会における演説にあった。陳学飛教授が漏らしたところによれば、江沢民の演説原稿は北京大学が起草を担当していた。演説原稿を起草するにあたり、北京大学は関係者の提案を受け入れ、積極的に中央政府に政策要求を提示することによって、政府のより大きな支持を勝ち取ったが、北京大学のこの要求は中国政府の提起した「科教興国戦略」(訳注:科学・教育によって国を興すという戦略)ともちょうどぴったり合っていたため、「世界先進レベルの一流大学を建設する」が国の最高指導者の発するスローガンとなったのであった。
とはいえ、「211プロジェクト」、「985プロジェクト」はそれ以前のいくつかの重点大学政策とは多少異なり、政治プロセスの外で、専門家の意見も取り入れていた。20世紀50~60年代と80年代の二つの重点大学建設政策は、重点大学の選択に際し、制度化された専門家の関与があったわけではなく(もちろん、専門家の意見を取り入れることは必要不可欠だったが、制度にはなっていなかった)、最終的に教育行政部門または中国共産党中央の決定という形で社会に重点大学の指定を布告していた。一方、「211プロジェクト」と「985プロジェクト」は専門家の意見の関与を定着させ、制度にしており、「211プロジェクト」大学の選択は「政治プロセスと専門家の評議(淘汰的評議を指す)によるものであり」、また、「985プロジェクト」大学の選択は「政治プロセスと非公開競争の方式(専門家による非淘汰的審査を指す)によって」行われた。
「211プロジェクト」の立件には、自己事前審査、部門事前審査、評議、立件許可の四つの手続きがあった。前の三つの評議プロセスは、実際には主に専門家によって行われた。大学が「211プロジェクト」建設名簿に入れてもらえるかどうかの最大の鍵は、各大学の「211プロジェクト」建設の事業F/Sについて実施される審査であり、この審査は政府の任命した専門家によって行われ、審査意見は大学が「211」大学になれるどうかを左右していた。「211プロジェクト」の評議に加わるほかに、専門家の意見は関連の大学の中期検査と審査にも具体的に反映された。
しかし、評議、中期検査・審査の専門家は政府によって組織されており、しかも大多数の場合、評議と評価に関与する専門家はすべて他の「211」大学から来た教授であり、評議を受ける大学の学長あるいは教授もまた、その他の「211」大学の評議専門家になる可能性があった。評議専門家間の極めて緊密な利益関係からすれば、このような評議が本当に客観的かつ公正なものであったとはとても保証しがたい。
だが、「985プロジェクト」大学の選択はこのように明瞭ではなかった。そこにも専門家による審査という部分はあったが、この種の審査は非公開であり、しかも大学の選択も非淘汰的なものだった。一般的に言って、政府が非常に明確な示唆を行った場合にのみ、ある大学は「985プロジェクト」建設の一員となるための申請をしに行き、その後の専門家の審査が政府の意図と食い違うということは基本的にあり得なかった。
5.結び
中国の重点大学政策の制定と実施は基本的に政府によって主導され、早期には特にそうだった。このことは中国の高等教育管理体制と密接な関連があり、高等教育機関は長いこと国家機構の付属物とみなされ、また政府部門と似たような行政等級区分を有していた。「211プロジェクト」、「985プロジェクト」建設においては、専門家の意見がますます重視されるようになったが、しかし全体として見れば、政府部門の影響力は依然として専門家よりも大きかった。
中国は後発国であり、科学技術と社会の発展水準は先進国とはまだかなり大きく隔たっている。そのため、中国政府は一部の大学に対する政策面の特別な厚遇によって、より短い期間に高等教育の質を向上させ、国の発展のためにより大きな貢献を果たさせることを望んでいる。このような政策は客観的には、教育資源に対する重点大学の独占を招き、非重点大学の発展をますます困難にし、平等な競争環境を失わせることになるが、しかし中国のように公共資源に限りがあり、かつ科学技術と文化的実力の向上に力を入れている国においては、重点大学建設政策はかなり長期にわたって続いていく可能性がある。