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【10-06】日本刀に映し出される歴史

沙 志利(北京大学「儒藏」編纂・研究中心 副研究員)     2010年10月25日

 アメリカのクエンティン・タランティーノ(Quentin Tarantino)監督の映画『キル・ビル』(Kill Bill)を見たことのある方にとって、劇中に現れる日本刀は強く印象に残っていることだろう。女性主人公の「ザ・ブライド」はわざわざ日本の沖縄に出向き、刀鍛冶として名高い服部半蔵にその刀の鋳造を頼んでいる。この刀はこの上なく鋭く、鉄さえもまるで泥を撫でるかのように切ることができ、敵を必ず討てるもので、主人公はこれを復讐のための武器とした。

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 よく知られるとおり、日本刀は刃が鋭く形が美しいことで有名で、西アジアのダマスカス刀、東南アジアのマレー式クリスとともに世界三大名剣と称される。他の日本文化と同様に、その淵源を遡れば、日本刀にも中国の刀剣との間に互いに影響を及ぼし合った歴史がある。

 中国の青銅剣の鋳造は春秋戦国時代に特に盛んになり、よく知られる越王勾践剣が最も代表的なものである。考古学的研究によれば、二千数百年も前の周秦時代に、中国の銅剣はすでに朝鮮半島の弁韓、辰韓、対馬等を経て日本の北九州地域に伝わっている。そしてこの一帯では、海外からの銅剣と現地の人々による模造品、さらに刀剣鋳造のための銅製鋳型がこれまでに大量に出土している。

 漢代になると鉄鋼を含む刀剣は重要な短兵となったが、その中でも環首大刀は特に有名である。劉煕は『釈名』の中で「刀は到と同音である。攻撃目標を切るために用いる。もとは環と呼ばれ、形には丸みがある。」と記し、漢代の大刀の基本的形状についてその特徴を説明している。刀環は、重さのバランスをとり、手から滑り落ちるのを防ぐ役割を果たすとともに、装飾をつけることもできる。『漢書』の記載によれば、李陵が匈奴に降伏した後、漢の昭帝はその旧友である任立政らを匈奴に派遣し、李陵を連れ帰そうとした。酒席では直接話しにくいため、任立政は李陵を目視し、刀環を撫でて李陵の足を握り、李陵が帰還できると暗示した。刀環から帰還という意味をほのめかす、これは設計者が当初は考えていなかった妙法であろう。1950年代以降、陝西省西安、河南省洛陽、湖南省長沙、広西省貴県で東漢の環首大鉄刀が出土している。1974年7月には山東省臨沂地区の蒼山県で、東漢の環首刀1本が出土した。その長さは111.5センチ、刀身の幅は3センチ、峰の厚さは1センチで、刀身には「永初六年(112)、五月丙午に卅湅の大刀を作る。子孫の吉祥を願う。」との銘文が隷書で刻まれていた。「卅湅」とは30層まで折り畳んで鍛造するという意味で、ここから、この刀が折り畳み鍛造されたという工法が見てとれる。漢代の鉄刀は日本での出土例も少なくなく、当時の模造品もそれに伴って存在する。例えば1964年に日本の奈良県天理市東大寺山古墳から出土した東漢の鉄刀には、「中平○(年)、五月丙午に(支)刀を作る。百回打って作った良い刀である。天の上は安らかであるように、(下には災いがないように)。」という銘文がある。これは、山東省蒼山県出土の鉄刀よりも鍛練の層数が多い。さらに興味深いのは、この2本の刀の作られた月と日が同じで、虞喜が『志林』で「古人は刀を打つときに、五月丙午に最も強い火をとり役立てた。」と述べていることを裏付けていることである。また、一部の学者の観点によると、「中平」刀は三国時代に日本に渡った職人が製造したものであるという。こうしたことから、中国と日本の武器交流の歴史が分かる。

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 魏晋南北朝時代には、鉄刀の鋳造技術には長足の発展があった。陶弘景の『古今刀剣録』には多くの名器が挙げられているが、実物はほぼ残っていない。研究者によれば、刀剣に銘文のあるものは比較的少なく、古代文字研究家の収蔵対象となっておらず、そして古代中国には宝器を副葬品とする風習があって、鉄刀は朽ちやすいために出土件数が非常に少ない。しかし文献からは、この時代は刀剣の鋳造が盛んで、切れ味の鋭いものが多かったことが分かる。魏の武帝曹操は、百辟刀5本を作っているが、「百辟」とは「百層に鍛造した(百煉)利器は、災厄を遠ざける」から来ている。「百煉」とは百層まで折り畳み鍛造するという意味だが、「百煉」は単にまとまった数によって、何回も折り畳んで鍛造するという意味を言うにすぎないという学者もある。それは、鍛練の回数が多ければ多いほど刀が鋭いというわけではなく、具体的に何回打つかは、職人が硬度に応じて適度に調節する必要があったためである。呉王孫権は、黄武5年(226)に剣千本、刀1万本を鋳造し、その規模は非常に大きかった。蜀の諸葛亮は蒲元に命じ、刀3千本を鋳造させた。蒲元は蜀の優れた刀鍛冶で、『北堂書鈔』と『太平御覧』の記載によれば、蒲元は刀を鋳造する際に、焼き入れに使う水に非常に気を配り、「漢の水は鈍く、焼き入れには適さない、蜀の川は清冽だ」と考え、焼き入れのために人に命じて成都まで水を汲みに行かせたという。あるとき途中で水をたくさんこぼしてしまい、涪江の水八升を混ぜると、蒲元はこれをすぐに見抜いて人々を驚かせた。刀ができ、竹筒に鉄の珠を満たして試すと、まるで草を刈るかのように手のままに切り落とされ、当時「神刀」と呼ばれた。また『晋書』の記載によると、十六国時代、夏の赫連勃勃は、叱干阿利を将作大匠に命じて百錬剛刀を作らせた。これには龍雀の大環がついていたことから「大夏龍雀」と呼ばれた。阿利はその技術を追求するために、できばえが少しでも意に添わなければ職人を斬り殺し、合わせて数千人の死者が出た。そしてその器物はどれも精美であった。晋代の楊泉は『物理論』で鋳刀師によって刀を分類しており、阮師の刀が最も上等であった。それに次ぐのが蘇家刀であり、阮家には及ばないものの一時は雄を称えた。その下に陽紀、趙、青と続く。この時代の鉄刀の形状については資料が少ないため、日本刀との関係を証明することは難しい。しかし、前後の時代から考えると、この時代は中国の刀剣が引き続き日本刀に影響を及ぼした時期であるはずである。

 唐代の鐡刀は国内でも実物の残存や出土がない。『唐六典』には、形状と用途によって唐刀は4種類に分けられるとの記載がある。一つめは儀刀で、宿衛兵が所持する。二つめは鄣刀で、身体の遮蔽と防御に用いる。三つめは横刀で、佩刀とも呼ばれ兵士が携帯する。四つめは陌刀で、歩兵が装備する長刀である。4種の唐刀の形状については考察が難しいが、おそらく陌刀の殺傷力が最大であり、史書では陌刀の威力についての言及が多い。安史の乱で、唐の名将李嗣業は陌刀の扱いに優れ、「嗣業の刀に向かえば、人馬とも命はない」と称された。『唐会要』には、開成元年三月に、城内の司衛がもつ陌刀、利器はすべて兵器として収用し、儀刀等を作ってこれに替えるようにとの上奏があったという記載がある。ここからも分かるように、戦乱のない時代には陌刀は鋭利な兵器とされ、一般の役人にも使用が認められず、代わりに儀刀が用いられていた。実物は存在してないが、唐代の敦煌壁画などの間接的な証拠からは、唐刀には刃がまっすぐで柄が長く、刀身の幅が狭いという特徴があったことが分かる。現在、日本の正倉院には唐刀が所蔵されており、これは一般には儀刀と考えられている。当時の日本人はこれを模造し、「唐様大刀」と称した。武士刀の歴史について語る場合、通常は「唐様大刀」から始まり、現代の武士刀の起源は唐刀であると考えるのが一般的である。

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 唐代以前、中国刀が日本に伝わった経路は、おそらく貿易、下賜、そして戦乱時の中国鋳刀師の渡来によるものであろう。日本に渡った中国人は日本では「帰化人」と呼ばれた。いずれにしてもこのような交流は通常は平和的な形で行われた。唐刀の模造から始まって日本刀は独自の発展の道をたどり、教え子は次第に師を超えて自らの風格を備えるようになった。学ぶことに長け、絶えず向上に努める、それが日本民族の優れた点である。日本刀の系統は複雑で、本文では説明し切れないため、ここではごく簡単な紹介にとどめる。形状と長さによって、日本刀は太刀、打刀、脇差、短刀に分けられる。本文では主に長さのある太刀、打刀を指している。日本刀の形状には、時代によって異なる様式が見られるが、中でも比較的大きな変化は、平安時代中期ころにまっすぐな刀身が徐々に湾曲した形になったという点である。この特徴は現在まで残っているが、近代には湾曲の弧度が少しずつ小さくなっていった。柄の長さは、使う人が刀を片手で握るか両手で握るかに関係がある。そしてどのように刀を握るかは、剣術の流派によって異なり、時代によって区分することはできない。もちろん、日本の「剣聖」宮本武蔵の「二刀流」では片手に太刀を、片手に短刀をとることとしている。このほか、刃が四角いか丸いか、刀身の幅が広いか狭いか、鞘の製造もきわめて複雑であり、日本刀の形状にとって重要な要素ともなっている。刀の形状がどのようなものであれ、日本刀については、鋭利さへの追求は一貫して変わらない。日本人は中国起源の折り畳み鍛造、鋼の挟み込み、土かけ焼き入れ、鍛練といった技法を引き続き発展させ、それぞれの工程をよりいっそう改善して、多くの優れた刀鍛冶が生まれた。それぞれ工程の細部に違いがあるため、出来上がった刀の刀身には刃紋の違いが出る。日本刀の製造方法は多くの流派に分かれ、秩序立てて伝承されており、それぞれに特長がある。刃紋と流派の鑑別は、日本刀の収蔵・鑑賞で重要な内容となっている。このほかに、武士は古代日本において重要な階層であり、武士刀は武士の魂でもあったため、武士刀については多くの複雑な社会的儀礼が派生して、武士刀の文化的意味合いを大いに高めた。これにより、刀は日本文化にとって切り離せない重要な要素となった。

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 北宋の沈括は『夢溪筆談』に百煉鋼の鍛造技術を記載し、南宋の曾敏行は、『独醒雑誌』で湖南の徭役人は黄鋼制の刀剣を用い、「絶世の破壊力で、一振りで牛の胴を切り落とせる」と述べている。しかしこれらはすべて一部の地域に限られたことで、全体的に見れば、宋代は中国の鉄刀の衰退期であった。文を重んじ武を軽んずる当時の政策と、火器が戦争に利用され始めたためであろう、刀剣などの短兵はあまり重視されなくなり、鉄刀の形状は単一的になって、鋳造の品質も以前より劣った。『武経総要』では宋刀は手刀1種類しかなく、見た目にもかさばった形状であまり威力はなかったと考えられる。

 北宋時代には、日本刀の回流現象が現れ始めた。欧陽修の作と伝えられる『日本刀歌』には、銭君倚学士の得た日本刀を称賛して「昆吾への道は遠く、今は通じていない、玉までも切ることができ、これにかなうものはないと言われる。宝刀は日本のもので、貿易の取引で海の東から来た。鞘は魚の皮で飾ってあり美しく、黄と白の真鍮と銅が使われている。たいへん気に入り高い値で手に入れた、身に着けると魔除けになる。」とある。ここから、北宋時代に日本刀はその鋭さと美しさから「宝刀」と称えられていたこと、また宋刀の鋳造業が衰退していたことが分かる。宋代以降、元代を経て明代に至るまで、日本刀は中国に大量に流入したが、その経路には多くの種類があり、贈答品として贈られたもの、合法的な貿易により輸入されたもの、そして密輸品も少なくなかった。日本刀は当時の中国刀と比べると鋭さが尋常でなかったため、中国人に好まれ、価格も非常に高かった。欧陽修の詩歌に始まり、歴代の文人が日本刀を詠んだ作品も多く、明代唐順之の『日本刀歌』、湯顕祖の『倭寇刀子歌』、宋懋登の『日本刀記』など、明代には最も盛んになり、一時は詩文創作の題材の一つとなった。しかし日本刀についてきちんと科学的に研究され始めたのは、明代の倭寇に対する反撃以降のことである。

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 明朝時代に、中国東南沿海での倭寇の襲撃が激化した。倭寇は多くが日本刀を持っていたが、朝廷の官兵が装備していたのは宋元以来の手刀で、作りが悪く実戦には向かなかったため、倭寇との戦いでは劣勢となった。当時すでに相当量の日本刀が中国に流入しており、日本刀に注目し研究し始めた見識者も多かった。鄭若曾は『筹海図編』で特に「倭刀」という節を設けて日本刀について紹介している。明末の屈大鈞による『広東新語』では日本刀に関する説明がよりいっそう詳しい。また宋応星は『天工開物』の中で日本刀の鋳造上の特徴に注目し、中国にその鍛造法がないことを惜しんでいる。日本刀に刺激を受け、明代の鉄刀ではその鍛造技術に折り畳み鍛造と鋼の挟み込み工法の伝統が復活した。日本の上等な宝刀にはなお比肩しないものの、鋳造の水準は宋元のころと比べると大いに向上し、形状の面でもわざと日本刀に似せるようにされた。日本刀の模倣は、明代鐡刀の一大特色である。抗倭の英雄である戚継光らは、倭寇と短兵をまみえる実戦の中で研究を重ね、倭刀を真似て中国刀に改良を加えた。戚継光は『紀效新書』の中で、刀を腰刀と長刀に分けている。腰刀は比較的短く、片手で握り、藤の楯と合わせて用いる。戚継光は腰刀の製造について、刀の峰から刃先にかけて平らに研磨し、刀肩はつけず、刀は軽く、柄は短く、形は湾曲させるよう求めており、「戚家刀」と伝えられるものはおそらくこの要求に基づいて作られたものであろう。長刀は、日本の長刀の様式を完全に踏襲しており、軽くて長く、両手で用い、鳥銃兵に装備させることができる。これが後に「苗刀」と呼ばれたものだと考えられる。倭寇との戦いに最終的に勝利したことは、武器の改良と大いに関係しているはずである。それ以降、「戚家刀」の形状が広まり、明代後期から清代に至る鉄刀の形に直接影響を与えた。鉄刀の形状だけでなく、学者の考証によれば、長刀を扱うための双手刀法も中国から朝鮮半島、日本へと伝わり、その後さらに日本から戻って伝わったという歴史的過程がある。

 鉄刀の東漸と回流の歴史は、私たちに多くのことを物語っている。文化交流はいつでもどこでも行われているもので、平和的な貿易によることもあれば、残酷な戦争を通じての場合もある。現在、日本に伝わる宝刀は多くが芸術品として珍重され秘蔵されている。手に取って鑑賞する機会があれば、その迫るような輝きの中から、この複雑に絡まった歴史をあなたも知ることができるだろう!

沙志利

沙志利(Sha Zhili):

中国山東省平原県生まれ
1999.9-2002.6 山東大学文化歴史哲学研究院 修士
2002.9-2005.6 北京大学中国語学科 博士
2005.7-現在 北京大学『儒藏』編纂・研究中心 副研究員