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【22-16】【近代編38】チャールズ・カオ~光ファイバー研究でノーベル賞を受賞

2022年08月08日

林 幸秀

林 幸秀(はやし ゆきひで)
国際科学技術アナリスト ライフサイエンス振興財団理事長

<学歴>

昭和48年3月 東京大学大学院工学系研究科原子力工学専攻修士課程卒業
昭和52年12月 米国イリノイ大学大学院工業工学専攻修士課程卒業

<略歴>

平成15年1月 文部科学省 科学技術・学術政策局長
平成18年1月 文部科学省 文部科学審議官
平成22年9月 独立行政法人科学技術振興機構 研究開発戦略センター 上席フェロー(海外ユニット担当)
平成29年6月 公益財団法人ライフサイエンス振興財団 理事長(現職)

はじめに

 今回は、上海に生まれた後に香港に移住して教育を受け、その後英国や米国で活躍し、光ファイバーの研究でノーベル物理学賞を受賞したチャールズ・カオを取り上げる。

生い立ちと教育

 チャールズ・カオ(Charles Kuen Kao、高錕)は、1933年に上海市金山県(現在の金山区)で生まれ、その後上海市内のフランス租界で育った。この租界は、1849年にフランスが清朝から租借し植民地として支配したもので、上海市内を流れる黄浦江の西に位置し、フランスが独自にインフラの整備を進め、上海で最高級の西洋的で美しい住宅街であった。

 カオの父・高君湘は、米国ミネソタ大学で法学博士を取得した人物であり、上海にあった東呉大学の法学部の教授であった。弁護士としても活躍し、国際法廷にも立った。また、父方の祖父・高吹万は、清朝末期の著名な文人であり、革命家でもあった。

 10歳となったカオは、インターナショナルスクールであった「上海世界学校」に入学し、中国語だけではなく英語やフランス語を学んだ。カオが12歳となった1945年に第二次世界大戦が終了し日本軍は撤退したが、今度は国共内戦が始まり、カオ一家は戦乱を避けて台湾に、その後香港に移り住んだ。カオは、香港の聖ヨセフ・カレッジで勉学を継続した。同カレッジを卒業し、香港大学入学資格を得るが、当時同大学には電気工学科がなかったため、カオは1953年にブリティッシュカウンシルの援助を得て英国に留学した。英国では、ロンドンにあるウーリッジ・ポリテクニック(Woolwich Polytechnic、現在のグリニッジ大学)に入学し、希望通り電気工学を専攻した。1957年に同カレッジから電気工学の学士号を取得した。ただし、テニスに熱中したこともあって成績はトップではなく、セカンドクラスであったという。

光ファイバーの研究で成果を挙げる

 学士号を取得したカオは、ITT(International Telephone & Telegraph)の英国法人 STC (Standard Telephones & Cables)に就職した。勤務の傍ら、カオはユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)のバーロウ(Harold Barlow)教授の下で、博士号取得を目指した。

 ITTでは、新たな通信の伝送手段である光ファイバー研究のチームに入った。光ファイバーは、電磁気の影響を受けずに極細の信号線で高速信号が長距離に伝送出来るため、現在デジタル通信を中心に多くの通信用途に使用されている。

 カオは1965年に、UCLから電気工学でPhDを取得する。カオはこの時期に、光ファイバーの研究で画期的な成果を挙げた。具体的には、光ファイバーが大容量の伝送路に適しており、予測される損失の大きさや許容される光電力の大きさから伝送距離を測定することなどにより、光ファイバーを用いた大容量光通信の可能性を予測したのである。翌1966年には、同僚のホッカム(Hockham, G. A.)と共著で"Dielectric-fibre surface waveguides for optical frequencies"と題する論文をIEEEの雑誌に公表した。

 その後、1970年に米国のコーニング社が低損失光ファイバーを開発し、これにより大容量光ファイバー通信の実用化が大きく推進された。カオの研究は、光ファイバー実用化に関して先駆的で先導的な役割を果たし、光通信技術の発展に大きな影響を与えたとして、国際的に極めて高く評価された。

日本との関わり

 当時日本においても、NEC、日本板硝子、日本電電公社などで光ファイバーに関する研究や、実用化に向けての材料開発などが行われていた。現在も日本のメーカーは世界市場で存在感を示しており、現在の光ファイバーの世界シェア(2019年度)で、第4位に住友電工(10.4%)、第5位に古河電気工業(10.3%)がランクインしている。

 このため、カオらの研究は日本で高く評価されることになり、1987年にNECがスポンサーであるC&C賞を受賞しているほか、1996年には日本国際賞を受賞している。日本国際賞は、日本にもノーベル賞に匹敵するような賞が必要だとして、松下幸之助が基金(私財など約30億円)を提供して、1985年より授与されている賞であり、授与式には天皇・皇后両陛下も出席される。これまでに同賞とノーベル賞を両方受賞した研究者は13名に上る。

ノーベル賞受賞

 カオは2009年に、ノーベル物理学賞を受賞する。受賞理由は、「光通信を目的としたファイバー内光伝達に関する業績:achievements concerning the transmission of light in fibers for optical communication」であった。ちなみに、2009年のカオ以外のノーベル物理学賞受賞者は米国のウィラード・ボイル(Willard Boyle)博士とジョージ・スミス(George Smith)博士であり、両氏の受賞理由はCCDセンサーの発明でカオの光ファイバーとは直接関係がない。

香港中文大学の学長に就任

 ノーベル賞ほか数々の国際賞を受ける業績となったITTでの研究の後、カオは1970年に香港に戻り、香港中文大学に新しく設立された電子工学科の教授に就任した。その後、1974年には再びITTに戻り、米国やドイツの研究所で光ファイバーの研究を続行した。

 カオは1987年に再度香港に戻り、香港中文大学の第3代学長に就任した。香港中文大学は、1963年に設置された比較的新しい大学であり、カオが教授を務めたことがある電気工学科を有していたが、中文(=中華文化)を大学名に冠していることで判るように文学、法律、経営学などの学部が優れており、工学全体を教える工程学院(工学部)は存在していなかった。学長に就任以来カオは、同大学を世界クラスの総合研究大学に育てるべく尽力し、1991年に工程学院を設置した。カオは同大学学長を1996年まで約10年間務めた。

晩年

 カオは2004年に、早期のアルツハイマー病であると診断され、以降治療を続けた。会話が困難となったものの、人や物の認識能力には問題がなかった。すでに述べたようにカオは2009年にノーベル賞を受賞したが、翌2010年に妻とカオは「チャールズK.カオ財団」を設立し、同賞の賞金をアルツハイマー病についての一般の認識を高め患者を支援することとした。

 その後もカオは、妻の介護を受けて生涯を送り、2018年に香港で亡くなっている。享年84歳であった。

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書籍紹介:近代中国の科学技術群像