【14-02】中国の歴史問題
2014年 2月18日
柯 隆:富士通総研経済研究所 主席研究員
略歴
1963年 中国南京市生まれ、1988年来日
1994年 名古屋大学大学院経済学修士
1994年 長銀総合研究所国際調査部研究員
1998年 富士通総研経済研究所主任研究員
2005年 同上席主任研究員
2007年 同主席研究員
そもそも歴史とはどのようなものだろうか。かつて起きたことの記録は歴史だとすれば、それは客観的な事実でなければならない。しかし、それはかつて起きたことに関する後世の記録であるがゆえに、史実をどのように記録するか、どの部分をきちんと記録し、どの部分を省くかは記録者の主観的判断に委ねられる。したがって、史実は唯一無二のものであるが、それに関する記録、すなわち、歴史は記録者によって大きく異なる。無論、このような指摘は決して歴史の恣意的な改ざんを許すということを意味しない。あらゆる歴史認識はその歴史の事実を覆すものであってはならないというのはデッドラインとなる。たとえば、日中の近代史について戦争の詳しい史実に関する考察と認識について相異があっても仕方がないかもしれないが、侵略戦争そのものを否定するようになれば、それは認識の相異の領域を超えて歴史の改ざんになり、絶対に許されない。
もう一つ述べておきたい点は、いかなる国や個人にとっても過去に起きたことをきちんと総括しなければ、将来に向けて正しい道を歩むことはできない。今の中国社会を考察すれば、経済成長が続いているにもかかわらず、その不安定性は際立っている。中国社会の不安定性を説明する経済学的な解釈以外に、実は、建国後の歴史認識について指導部と国民の間に大きな相異が存在し、その歴史認識の違いこそが中国社会を不安定にさせていると思われる。
1.毛沢東時代の評価
中国共産党が建国したのは1949年だった。そこから数えて最初の30年間はいわば毛沢東の時代だった。今から35年前に共産党中央と最高実力者だった鄧小平は毛沢東時代をすでに総括したはずであるが、その総括は国民の間で必ずしもコンセンサスになっていない。簡潔に整理すれば、中国では毛沢東元国家主席の功罪をめぐり意見が激しく対立している。
現在、残っているさまざまな記録を読むかぎり、毛沢東自身が引き起こした反右派闘争や文化大革命などの政治運動で約2000万人の幹部と知識人が迫害を受けて殺害されたといわれている。無論、犠牲者の人数は統計上の制約により概算の数字であるため、確実な犠牲者数は定かではない。しかし、たくさんの人が犠牲になったのは確かである。そして、1950年代末、毛沢東が推進した大躍進政策が失敗した結果、約3000万人が餓死したといわれている。これも推計の域を超えない数字であるが、たくさんの餓死者が出たのは間違いないだろう。
建国後、毛沢東は政敵と思われる幹部を次から次へと失脚、殺害させた。そのなかでかつてともに戦った戦友の多くも生き残れず抹殺された。その代表者の一人は国家副主席で毛沢東の後継者とされた林彪である。林は毛沢東の迫害を恐れ、飛行機で旧ソ連への逃亡を図ったが、不運にもその飛行機がモンゴルに墜落し関係者全員が死亡した。
これらの一連の史実からすれば、毛沢東は間違いなく秦の始皇帝以来の暴君にほかならない。しかし、今の中国社会では、毛沢東思想は復活されようとしている。ある個人は毛沢東思想を信奉するとしても、何の問題もないが、中国社会全体は毛沢東の犯した罪を見て見ないふりをするとなれば、大きな問題が生じる。晩年の毛沢東は「中国にとって文化大革命は一回だけでは不十分であり、何回も繰り返さなければならない」と周辺に暴言したことがある。文化大革命ほど反人類的・反文明的な暴挙はない。にもかかわらず、中国では、文革大革命の真実についてきちんと総括されていない。35年前、最高実力者だった鄧小平が率いる共産党中央は迫害を受けた幹部たちの名誉を回復させたが、党として犠牲者に対して謝罪していないうえ、賠償金も払っていない。
2.1989年の天安門事件
もう一つの事件は、「改革・開放」政策が推進されて10年間経過したところ、北京の大学生を中心に政府に対して民主化を要求する学生運動が起きた。この学生運動は一貫して平和裏に行われたが、北京の中心部の天安門広場を占領した学生を排除するために、政府は軍を投入し、しかも学生と市民に対して発砲した。今でもどれぐらいの犠牲者が出たかは明らかではないが、人民解放軍は人民と国を守る軍隊のはずだったが、人民に対して発砲したということはどんなに弁解しても許されない行為である。
共産党の資料では、未だに軍の投入は正しい決定だったことになっている。しかし、不思議なことに当時の指導部の誰もが軍を投入した「名誉」を手に入れようとしない。それよりも、趙紫陽総書記(当時)は口述した回顧録のなかで自分が学生を支持する立場だったことを明らかにしている。一方、李鵬首相(当時)は党中央の反対を押し切って香港で「李鵬日記」を出版した。そのなかで軍の投入を決めたのは自分ではないと繰り返して弁明した。そして、陳希同北京市長(当時)は口述した回顧録で誰が軍の投入を決めたか、自分は知らないと強調した。
当時の指導部のこのような一連の弁明は実に不思議としかいいようがない。天安門事件でデモ行進の学生を武力鎮圧した決定が正しければ、その名誉ある決定を下した責任者をどうして誰も名乗らないのだろうか。中国の知識人の間で、今も政府に対して天安門事件の名誉回復を求めている。とくに、今年は天安門事件の25周年にあたり、政府にとり一つの試練となる。
3.二分化する中国社会の行方
上で述べたように、政府共産党は都合の悪い史実を粗末に片づけてきた。その本心は自らの統治を安定化させることにあると思われる。しかし、毛沢東の功罪について明確な判断を示さなかった後遺症は今となって現れている。まず、知識人の間で毛沢東と毛沢東時代を痛烈に批判するリベラル派が現れているのに対して、いまだに毛沢東を神様のように祭り上げる左派の知識人が少なくない。両者の主張は真っ向から対立し、一歩も譲らない。
政府はこの対立について態度を明確に表明していない。なぜならば、毛沢東が犯した罪は明々白々だが、それを徹底的に追求すれば、共産党そのものは空中分解してしまう恐れがある。共産党の一党独裁を持続するには毛沢東の偶像が必要であると思われている。現に天安門の上に毛沢東の肖像画は未だに掲げられている。
一方、89年の天安門事件の過ちについて、指導者の誰もが知っているはずだが、その責任を追及すれば、当時の最高責任者だった鄧小平は大きな責任を負わなければならない。仮に鄧小平が批判される事態になれば、「改革・開放」路線そのものが危うくなりかねない。しかし、問題はリベラル派も左派も中国社会の現状について強い不満を抱いている。「改革・開放」政策によって経済発展という大きな成果を得られているにもかかわらず、現状に満足している者が少ないのは何よりの問題だ(北京大学張維迎教授)。
では、なぜ中国人は発展している経済と社会に満足しないのだろうか。大きくいえば、二つの原因がある。一つは大多数の中国人は経済発展の果実を享受していないことである。少なくとも彼らが得ているメリットは自らの期待値に比べ遥かに小さいものである。もう一つは中国社会の将来について希望が持てないことである。共産党幹部は経済発展の果実をもっとも享受しているはずだが、彼らは自分の財産が安全である自信が持てない。それゆえ、近年、共産党幹部は巨額の金融資産を海外のタックスヘイブンへシフトしているといわれている。振り返れば、1990年代に入ってから共産党は憲法を改正し、個人の私有財産は憲法によって守られているとの条項が盛り込まれた。貧しい者には個人の私有財産はほとんど存在しない。結局のところ、憲法によって守られる私有財産は共産党幹部を中心とする富裕層の財産である。しかし、中国が法治国家ではないことは、共産党幹部が誰よりもよく知っている。憲法に書かれていることは必ずしもその通りに施行されない。それゆえ、世界でもっとも成長している国から経済がほとんど成長しない国へと資産がフライト(逃避)している。このムーヴメントは経済制度や経済政策の問題に起因するというよりも、歴史問題が正しく処理されていない結果である。