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【19-10】人間文化のありか 雪と神話

2019年6月19日

朱新林

松岡 格(まつおか ただす):
獨協大学国際教養学部准教授

1977年生まれ。学術博士(東京大学)。エスニック・マイノリティ研究会代表幹事。専門は地域研究(中国語圏)、文化人類学、マイノリティ研究。著書に『中国56民族手帖』『台湾原住民社会の地方化―マイノリティの20世紀』など、論文多数。

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神話の意味とは

 季節外れかもしれないが、雪の話をしたいと思う。

 しかし、まずは神話の話から始めたい。中国には多様な民族が暮らしている。各民族には、それぞれ代々伝えられてきた神話・伝説がある。

 そうした神話・伝説がどのような意味を持ってきたのか、ということが学問において議論の対象になってきた。

 例えば創世神話と呼ばれるものは、確かに多くのことを説明している。自分達の暮らすこの世界がいかに創られたのか、生命、人類はどのように誕生したのか。そうしたことについて語っている。少なくとも、そのように見える。場合によっては宇宙の成り立ちについて説明しているように見える場合だってある。

 世界レベルでの神話の比較研究も行われてきた。例えば中国の少数民族の神話の中にも、「ノアの箱舟」のような、洪水神話が見られる。洪水神話はどのような意味を持っているのか。その民族が過去に経験した地域限定的な自然災害を伝えているのか、あるいは、地球の歴史のある時期に起こった、広域にわたる大災害の様子を、いくつかの民族が語り継いできたのか。

 そして何より現代に暮らす我々にとって神話はどのような意味があるのだろうか。「話として面白い、壮大」といったこと以外に何か意味があるのだろうか。科学のない時代に、物事の成り立ちについて探究し、説明しようとしたものと考えればわかりやすい。しかし、だとしたらそれはいわばエセ科学、ということになる。言い換えれば科学の時代には用済み、ということになる。

「本当にそうだろうか」とアーシュラ・ル=グィンは問いかけている。ル=グィンはアメリカのSF小説家で、『ゲド戦記』というファンタジー小説を書いたことでも有名である。『ゲド戦記』は邦訳も出ており、日本でも映像化された。

 ル=グィンは「SFにおける神話と元型」(岩波現代文庫『夜の言葉』(2006)所収)というエッセイでフロイトなど心理学者の所見を引きつつ、現代における神話の意味について説明している。ル=グィンが重視するのは、神話が人間の深層心理に働きかける、という部分である。この世に実在しないはずのもの―神やドラゴンのような怪物―への畏怖の念、というのもそういったところから生じるのではないか。

神話と真実

 私も「本当にそうだろうか」と問うてみたい。

 まず言っておくと、神話や伝説が過去にあった事実をそのまま伝えている、と考えるのは難しい。多くの場合、代々口頭で伝えられてきたものである。時間がたてばたつほど、内容が変わっていくことは自然である。「お話」であるわけだから、こちらの方が面白い、となれば話の筋が変わることだってあるだろう。ある地域で伝わっていた説話が他の地域に広がる、ということもあるだろう。そうすると、登場する動物やら植物やらが他のものに置き換わっていることだってあるだろう。

 その意味で神話が真実を伝えている、とはなかなか断言することはできない。ただ同時に考えなければいけないのは、だからと言って神話が現代に何も伝えていない、とも言えないということである。証明は難しいが、なにがしかその民族の重要な考え方や知識を後世に伝えようとしていることは十分にあり得るのである。

食べる/食べない

 以前にも書いたように、民族によって、文化によって、何を食べて何を食べないかが大いに異なっている。

 彝族の場合は、羊、牛、豚、鶏は食べる。しかし馬、猿、犬、蛇は食べない。中国各地の料理は実に多様で、馬、猿、犬、蛇を食べる地域がそれぞれ存在する。しかし、彝族はそのようなものは食べない。日本では馬肉を食べる習慣がある。特に東日本で多くあるようだ。彝族の人達は日本に来ても、決して桜肉を食べようとはしなかった。

彝族が食べない理由

 なぜ彝族はこれらの動物の肉を食べないのか。一つすぐに思いつくのは、彝族の環境に対する認識を反映している、という可能性である。例えばどの植物、あるいは動物に毒性があるのか、あるいは薬効があるのか、といった知識である。ある種の医学的知識と言ってもよいかもしれない。

 だが彝族の人達に聞いても、そういう主旨の答えが返ってくることは、まずない。おそらく最もよく言われるのが、猿、犬、蛇、馬などが人間の手と同じような「掌」を持っているから(食べてはいけない)、という言い方である。

 しかしこの説明を聞いて「なるほど」と思えるだろうか? 少なくともわかりやすくはないだろう。「突っ込みどころ」満載である。猿や犬はまだわかるとして、馬が人間の手と同じ形をしているだろうか? ヘビに一体、手にあたるようなものがあるのか、と考えてしまうからだ。なぜ彝族がこうした動物が人間と同じ手を持つと解釈しているのか、ということからしてわからない。

 また、そもそも手の形が似ているとなぜ食べてはいけないのか、というのも何らかの説明がないとわからない。こうした問いを積み重ねていった先に行き着くのが神話なのである。

ふたたび神話と真実について

 彝族の創世神話であり、叙事詩である『ネウォ』というものがある。彝族の言語で、世界の成り立ちや生命の成り立ち、そして人間の起源などについて説明しているものである。

『ネウォ』の「人間の起源」という章にこうした「食べてはいけない」動物が登場する。

 叙事詩『ネウォ』の説明によれば、多くの生命は雪から生まれた。雪が生んだのは12種類の動植物である。そのうちの6種類は無血の生命、すなわち植物である。あとの6種類は有血の動物である。

 この「雪の一族」のうちの有血の動物、その中に人間の掌と同じ掌を持つ動物たちが含まれる。彝語において雪と血は同音である。こうしてみると彝族の文化の中には、雪、血、生命、動物、人類というつながりが見られるのである。つまり、人間は雪から生まれた、雪の一族の一員である。同じ雪から生まれたこうした動物は食べてはいけないのである。共通の起源を持つ生きものの命を奪ってはいけない、食べてはいけない、という発想である。

 いつ、どの時点でこのような解釈・思想が生まれたのか、定かではない。しかし、こうした考え方は現代に生きる彝族の認識に確かに影響を与えている。その例が、上で述べた食文化の例である。

 この認識によってある特定の動物を食べるのか、食べないのか、もっと言えばその動物の命を奪うのか、奪わないのかということが決められているとしたら、本当に神話には意味がないのだろうか? 真実ではないのだろうか?

 本稿の最後に、彝族の吟唱詩人、アク・ウウ氏の作品の中から、雪の一族について扱った文章の一部を引用しよう。

雪、それは空を飛翔する命の粒である。彝族は舞い散る雪の中で、生命の繁栄を祈る。

雪、それは大地に潜り、湧き出でて川となる。そして祖先が口を潤す泉源となった。

雪、それは鮮血である。雪から生まれた鮮血は身体をめぐる動脈となり、我々の生存本能を駆動させる。

11種類の生命が、人類とともに誕生したのだ。

11回の痛みが、鮮烈な傷痕を残した古い記憶を呼び起こせ。

11本の道が、荒野を走り、人間の誕生へと続く道を用意した。

11種類の暗号が、祖先が暮らした荒ぶる山谷に刻み込まれている。

我々の祖先は、12番目の生命なのだ。

...中略...

 私はひそかに期待する。いま、天より生命の雪崩がふりかかり、万物が再び母体へと回帰し、宇宙が再び静寂に帰するその時を。

(アク・ウウ氏著作集『神巫的祝呪』(2009)より筆者意訳)

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2014年の来日時に獨協大学にて吟唱を行うアク・ウウ氏。


※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.15(2019年5月)より転載したものである。