中国実感
トップ  > コラム&リポート 中国実感 >  【09-005】国賊と英雄

【09-005】国賊と英雄

寺岡 伸章(中国総合研究センター フェロー)     2009年3月16日

 中国人は朝食に“油条”という細長い揚げパンを豆乳に浸けて食べるのを好む。レストランで油条と豆乳で4元出せば十分である。油条の由来は、宋の時代に、敵国であった金と密通して無実の将軍岳飛(がくひ)を殺害した宰相秦檜(しんかい)夫婦を憎むあまり、彼らに見立てて小麦粉で二本の棒を作り、油で揚げて「釜茹での刑」にすることで恨みを晴らしたと伝えられる。つまり、中国人は秦檜が国賊で、岳飛は愛国者だと信じている。

 この二人を巡る時代背景を探り、彼らの運命の意義を考えてみたい。

 しばらく歴史の記述が続くが諦めずに、ついてきていただきたい。

 岳飛が少年であった頃、中国は、中原には北宋、北西地域にはタングート族の西夏、モンゴル高原には契丹族の遼、東北地方には女真族の金が並び立つ状況にあった。岳飛は、『春秋左氏伝』と「孫呉の兵法」を勉学しつつ、弓や弩を射るなど文武両道に優れていた。一方、秦檜は科挙に合格したエリート官僚で、岳飛より13歳年長であった。

 金は1125年遼を滅ぼした。北宋は金の勃興を見て、金と同盟を結び南北から遼を攻めることになった。しかし、北宋は軍勢派遣の約束を守らなかったため、金は激怒し、1126年北宋の首都開封を攻略した。徽宗、欽宗は金に拉致され北方に送られた。これは“靖康の変”と呼ばれ、1127年北宋は滅びる。金は華北統治のために傀儡国家楚を誕生させようとするが、秦檜が猛反対したため、金に北へ連れて行かれた。

 1127年、岳飛は25歳の時、開封流守の下で北宋の首都開封を金軍から守ることを命じられていた。流守は金に降伏するが、岳飛の戦いは評価され、1130年朝廷より通州と泰州(江蘇省長江北岸の地)を鎮撫する正式な官に任じられた。折りしも同年11月、秦檜は金の軍から脱走し、宋に戻った。この時既に、北宋は首都を臨安(杭州)に移し、南宋となっていたが、和平派と抗戦派の争いは激しくなっていた。抗戦派は「秦檜は金の和平論者ダランとの内々の約束の下で帰国を許された」と非難していた。これが、後世に秦檜が金と密通していたと言われる原因となった。

 将軍たちが国内各地の混乱を治めていた時、秦檜は1131年宰相に任命された。一方、岳飛は、1134年古来中国の南と北を結ぶ交通の要衝である湖北の襄陽(じょうよう)を奪還し、高宗は岳飛の戦いを賞賛した。同年、彼は節度使を授けられた。32歳の若さであった。さらに、スピード出世したため、他の武将から嫉妬の眼を差し向けられるようになった。また、学問も出来、他の将軍とそりが合わなかった。

 1139年正月、宰相秦檜は宋金和平交渉をまとめ、河南と陝西地方が南宋に返還され、その代わりに南宋は金に歳幣として銀25万両、絹25万匹を贈ることになった。ところが、金朝内で政変が起こり和平派のダランが殺され、和平は破綻した。

 さらに、岳飛は「願わくは謀を立てて全勝を期し、黄河以北の地を収め、手に唾して燕雲(北京と山西)を回復し、仇を報じて国に報いん」と上奏し、秦檜の憎悪を買った。

 和議が破れると、金軍が一斉に南下して洛陽や開封を占拠すると、南宋もまた抗戦派の将軍が応戦した。岳飛は岳家軍を率いて北上し、洛陽を回復、開封郊外にまで及んだが、和平を模索する秦檜は南宋軍に引き上げを命じ、岳飛も1140年、武昌に引き返した。その時、岳飛は「我が10年の努力は1日にして廃された」と嘆いた。

 秦檜は和平を実現するために抗戦派の力を削がねばならないと考え、節度使の軍事力を削減させる策をとることにした。つまり、将軍を高官に転任される交換として、彼らの私兵を国家に没収していった。しぶる将軍に対しては、賄賂を使った買収もあった。清廉な岳飛が買収に利かないとみると、秦檜は岳飛と息子の岳雲に根拠のない罪を着せ、投獄した。そして、妻の進言に従い、1141年12月に処刑してしまう。岳飛は39歳で、岳雲は23歳であった。そして、翌年、金との第二次の和議が成立したのだった。

 その後、岳飛の冤罪が証明され。杭州の西湖のほとりには岳王廟が建立された。岳王廟の岳飛と岳雲父子の墓の前には、彼らを陥れた秦檜夫婦が縄でつながれた形で正座させられ、頭を垂れている石像が並べられている。中国人観光客には、その石像に向かって唾をかける者もいる。国賊というわけである。

 南宋はチンギスカンに滅ぼされ、モンゴル族の支配に下ることになる。元の時代に、岳飛は異民族の金と戦ったとして語り継がれ、歴史上の英雄と呼ばれるようになる。

 さて史実は以上のとおりである。中国の歴史の教科書でも岳飛は英雄で、秦檜は悪者と断定した記述となっている。歴史の事実は見る時代によってその評価が変わって当然である。一方的な記述は、生徒から多角的で柔軟な発想を奪うのではないかと筆者は恐れる。ここではもう少し冷静になって彼らを評価してみたい。

 まず、秦檜は宰相に過ぎず、南宋のトップではない。彼は宰相として高宗の意向を受けて、精力的に和平工作を行ったのだ。臣下としては当然である。和平が間違った政策と言うのであれば、先ず高宗を非難すべきである。高宗も和平派と抗戦派の抗争下で方針が変わっていった。

 また、当時の金と南宋の国力の差を考慮すると、金との戦争を起こし、華北を奪還することは不可能であったと言えよう。そもそも、太祖趙匡胤(ちょうきょういん)以来、宋は文治主義の国家であったはずだ。宋は科挙による官僚体制を整備するとともに、商業や文化の発展を尽力した王朝であった。北方民族の圧力に対して、お金で平和を買っていたのである。平和を守り、国家の繁栄と人々の安全を第一とするのであれば、それを何故非難することができようか。

 このように考えると、秦檜と岳飛の物語は、後世の人々が漢族は強国であるべきという当時としては“叶わぬ夢”を追い、作り上げたものとも言えよう。

 宋は漢族による他の王朝と比較すると、やはり特異な時代だったのである。しかし、筆者は宋代を高く評価している。印刷術、火薬、羅針盤の三大発明は宋代のものであるし、宋代の磁器は最高傑作の段階まで進歩している。『三国演戯』、『西遊記』、『水滸伝』の原型もこの時代につくられている。宋は比較的小さい国であったが、庶民は豊かで夜遅くまで酒や歌に興じた幸せな時代であったのである。

 中国人学者に疑問を率直にぶつけてみた。

「宋は文化的に成熟し、発展した時代であったが、これは皇帝が庶民にも自由な生活をさせたからではないか。文化や科学技術の発展には自由が不可欠である」

と筆者が主張すると、彼は、

「あなたの言うことは正しい。しかし、権限を臣下に降ろしたがために、和平派と抗戦派、改革派と保守派の激しい抗争がおき、宋は強い国家にはなれなかった。それが、異民族女真族に領土を奪われ。さらに、その後勃興してくるモンゴル族の元に滅ぼされてしまう原因になったのだ」

 中国という大国の運営の困難さを感じた次第である。いずれにしても、国家のプライドか、それとも庶民の幸せが大事かが、秦檜と岳飛の評価の分かれ道である。杭州の西湖の夕暮れは美しい。特に、霞がかかった時に小舟から眺める景色は幻想的である。湖畔の廟の岳飛は英雄と讃えられているが、果たして安らかに眠っているのであろうか。岳王廟の奥まったところに、石碑がひっそりと立っており、そこには岳飛が言ったとされる言葉が彫られている。

「文官が金銭を愛せず、武官が死を恐れなければ、天下が太平でないことはあり得ない」