【19-16】紅茶の道(江西省)―中国茶の舞台を訪ねる
2019年9月4日 棚橋篁峰(中国泡茶道篁峰会会長)/竹田武史(写真)
下梅ー武夷山麓に始まる紅茶の道の出発点
「中国茶の舞台を訪ねる」旅も早いもので最終回となりました。これまで中国全土の茶産地と茶文化の地を訪ねて来ましたが、今回は全世界に広まった中国茶の歴史を知る上で、とても重要な紅茶の輸送ルートを訪ねてみたいと思います。
ヨーロッパにお茶が伝わった当初、紅茶はBOHEA TEAと呼ばれた武夷茶のことでした。発酵茶である紅茶は保存が容易であるため全世界に伝播し、やがて世界のお茶市場を席巻することになるのですが、そのルートについては、一部を除いて今日まであまり知られていませんでした。武夷山に誕生した紅茶は、広州から海路ヨーロッパに運ばれたというのが定説になっていますが、当時の中国の様子を考えてみるとそれほど単純ではなかったようです。今回は、紅茶の出発地として最近注目を集めている武夷山の下梅と、最大の集散地だった江西省の河口を訪問してみましょう。
紅茶が登場した十七世紀末頃の武夷山の茶葉市場は、『崇安県志』によると、武夷山の東8kmほどにある下梅や西15kmほどにある星村にありました。最盛期には毎日茶葉を運ぶ舟が300艘も往来していたと記されています。その後、様々な理由で茶葉市場は現在の武夷山により近い赤石に移って行くのですが、下梅や星村が当時の茶葉市場の中心であったことは間違ありません。
星村では主に安徽省の商人が、下梅では主に山西省の商人が取引をしていました。当時は海禁政策(領民の海上利用を制限する政策)が敷かれ、広州の港しか利用できませんでした。その為、海外へのお茶の販売ルートは
〔1〕 星村から武夷山脈を越えて江西省の河口に茶葉を集め、河川を利用して南昌~贛州~大余~梅嶺関~広州へと運び海路ヨーロッパへ。
〔2〕 下梅から武夷山脈を越えて江西省の河口に茶葉を集め、河川と陸路で武漢~山西省楡次市~張家口~ウランバートル~キャプタと運びロシアへ。
この二つのルートは、海禁政策が始まった明代から、途中何度も緩和された時期も含めて、アヘン戦争によって海禁政策が終わるまで続き、その後も紆余曲折を経ながら二十世紀まで続きました。
〔3〕 アヘン戦争後、1843年、イギリスと清との間に結ばれた五口通商章程によって、広州、福州、厦門、寧波、上海の五港が貿易港として開港されて海禁政策が終わると、福建、広東の商人らが河川で福州へ、さらに中国南方の沿岸部へ運び販売するようになりました。
以上に挙げた3つが、紅茶が世界に広まる主要ルートなのですが、今日まであまり研究がなされていなかったようで、特に2つ目のルートについては近年になってからようやく知られるようになりました。
河口――長江支流に栄えた最大の紅茶集散地
武夷山の茶葉市場があった下梅とはどの様な村だったのでしょうか。その歴史は古く、新石器時代まで遡り、宋代には武夷山の行政機関が置かれていました。明末清初に武夷茶の集散地として発展し始め、1727年、山西省の商人が武夷茶を仕入れるようになるとさらに繁栄しました。最盛期には豪商の邸宅が七十棟も並んでいたといわれます。
写真① 下梅村の水路と家並み。
下梅はその中心を貫く水路に沿って鄒氏家祠、西水別荘等の古建築群が現存しています。南方の建築様式が完備され、大きな柱が並ぶ邸内の壁には精緻な彫刻、木彫、絵画が施され往時の繁栄ぶりを偲ぶことが出来ます。一方星村には狭い街路が残るだけで往時の面影はありません。川辺はかつて茶葉を積み下ろした姿はなく、九曲渓の観光筏の港になり、たくさんの観光客で賑わっています。
写真② 鄒氏家祠の外観。
写真③ 鄒氏家祠の内観。
写真④ 下梅でも茶葉が栽培、加工されている。
武夷山脈の福建省と江西省の分水嶺を越えると、桐木水という川を下って、長江につながる信河の合流点に出ます。ここにかつて最大の茶葉の集散地として栄えた河口があります。前述したように明清時代の中国が海禁政策をしていた頃、武夷山を含む閩北地区、江西省のお茶は、ほとんど河口に集められていました。また当時の河口では河紅茶が生産され、武夷茶と共に重要な貿易品でした。河口は内陸部ではありましたが、様々な物産と共に茶葉輸送の港が整備され、大いに繁栄していたのです。
写真⑤ 河口の町と信河に架かる浮橋。
河口の往事の様子は、イギリス人ロバート・ホォーチュンが『遍歴記』(1846)に「...河口は非常に繁栄した大きな町である。茶の販売店が林立し、全国の茶葉商人が雲の如く集まっている。イギリスの商人が中国国内で茶を購入する場合には、河口を拠点にするほうがよい...」と記述しています。
清代の学者袁枚(1716~1797)は『茶市雑詠』の中で「清代の始め茶葉は西から来た商人によって商いされ、江西省の河口から河南省に運ばれ、遠隔地に於いて売買された。西から来た商人とは山西省の商人のことであり、家ごとに資本金は2、30万から100万あり、貨物の往来は絶え間なく続いた。」と記しています。
清代の乾隆・嘉慶年間には河口の茶葉貿易は非常に盛んになり、茶業に従事する人は3万人にも達しました。
今日、河口を訪ねるとその古い家並みの中に福建会館や茶商の邸宅、銀行、郵便局の跡などが残り、路地の石畳には行き交った荷車の轍の跡をはっきりと見ることが出来ます。港の跡を見ても往事の賑わいと喧噪が聞こえてくるようです。紅茶はこの場所からイギリスへの海上ルートとロシアへの陸上ルートに分かれ、ヨーロッパに伝播していったのです。
写真⑥ 街路に残る荷車の轍の跡。
これまでにご紹介してきた「中国茶の舞台を訪ねる」シリーズは中国茶文化の扉を開いてくれると共に、先人の業績を振り返り、その恩恵を感じる大変意義深い旅となりました。
写真⑦ 河口の特産品、河紅茶。
※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.16(2019年8月)より転載したものである。
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