【12-12】中日仏教の縁
李 暁亮(淄博職業学院図書館講師) 2012年12月14日
儒教、道教、仏教は中国三大宗教とされ、これら三大宗教が日本にもたらした影響については、これまでにも多くの学者が言及している。本稿は、先人の研究を基礎に、中国仏教の日本への伝来および日本仏教の特徴についてまとめたものである。
1.日本仏教略史
東漢のころ、仏教が中国へと伝わり始めた。紀元前から紀元後にまたがる時代のことである。仏教はその後発展を続け、中国の特色を持つ中国仏教が形成された。6世紀中葉、仏教は中国から朝鮮を経て日本へと伝わった。日本では、仏教受け入れ賛成派と反対派の間で論争となったが、最終的に賛成派が勝利した。
日本仏教の普及は、聖徳太子によるところが大きい。聖徳太子は摂政であった30年間、「仏教興隆の詔」を出し、寺院を建設し、自ら仏典を説き、遣隋使、遣唐使を派遣した。朝鮮を通じて中国文化を取り入れるという従来の方式から、日本と隋唐が直接交流する方式へと改め、仏教を日本の国教と定めた。
推古33年(625年)、高句麗の僧・慧灌が渡日し、三論を広く伝え、日本の三論宗の祖となった。慧灌には優秀な弟子も多く、三論はこの時期の仏教の主流となった。この時期は、国の保護を受けているものの、当時はまだ多くが「神頼み」の気分で仏を祀っており、真の意味での慧解(えげ、物事を正しく理解すること)と行持(仏道の修行を続けること)には至っていなかった。
日本は奈良時代に入った後も、飛鳥時代の仏教保護政策を受け継ぎ、仏教興隆による護国佑民を目指した。聖武天皇は熱心に仏教を広め、奈良に東大寺を建立、大仏をつくり、唐から僧・鑑真を招いた。鑑真は戒壇を築いて授戒を行い、日本仏教の戒法を正式に確立したほか、華厳思想を尊重し、政教合一の理念を体現した。この時代、いわゆる南都六宗(三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・律宗・華厳宗)が確立された。中でも華厳宗は聖武天皇から重視され、高い地位が与えられた。
平安時代になると、最澄と空海が唐から伝えた天台宗・真言宗が広く信仰されるようになった。最澄は入唐し、密、禅、戒の各宗を学んだ。これにより、日本の仏教は複合性を持つようになり、日本の特色ある仏教・天台宗が確立された。
平安時代の中ごろ、貴族と武士の間の矛盾が深刻化し、寺は財産を保護するために武士を僧兵として雇った。末法思想が生まれたが、末法に対する警戒や不安から、新たな宗派も生まれた。まず初めに現れたのが、浄土思想を含む念仏往生派で、空也上人や恵心(源信)などが代表である。奈良時代は国家的・学術的であった仏教は、平安時代になると、民間仏教へと変化を遂げた。
激しい内乱の末、源頼朝が鎌倉に幕府を設置、鎌倉時代が始まり、武家政権が誕生した。仏教面でも新たな宗派が続々と出現し、南都六宗が再び復興の兆しを見せ、浄土宗、臨済宗、天台宗、法相宗などが相争った。浄土宗と浄土真宗の2派は信徒が最も多く、この点から見ると、浄土真宗と日蓮宗は日本で現地化された仏教と言える。
室町時代、社会の動乱に伴い、仏教は再び最盛期から一転、衰退を迎える。ただし禅宗は武士が帰依し、また「明心見性」という教義により、戦禍の中でも唯一、社会の各階層で盛んに広まった。禅とつながりの深い日本の茶道、華道、書道、剣道が生まれた。
禅宗の高僧は将軍や武士から尊重され、擁護されたため、自然と「禅」が流行した。この時期崇拝されたのが「五山文学」の地位を確立した夢窓国師と大燈国師だ。室町末期、日本は群雄割拠の戦国時代に入り、仏教は二つの異なる道に分かれた。
一つは武士と手を組み、環境に適応した真言宗・天台宗など。もう一つの勢力は、圧迫された農民や下層の人々などを取り込み、有利な形勢をつかもうとした浄土真宗や日蓮宗などだ。
戦国時代の動乱が終わると、徳川家康が江戸に幕府を設置した。鎖国政策を採り、キリスト教を禁止した。一方で仏教やその他の文化は安定した環境の中で発展を続けた。徳川家康は浄土宗に帰依し、仏教を手厚く保護し、封建体制に組み込んだ。家康は「寺院法度」を発し、寺院に対する様々な規定を定めた。また、「檀家制度」を実施し、国民がそれぞれ所属する寺院を持つよう定めた。
明治元年(1868年)、「王政復古」と「祭政一致」という原則の下、政府は僧侶が職業の一種に過ぎないと規定し、僧位・僧官を返上させ、姓を名乗るべきとし、僧侶の肉食、妻帯、蓄髪を認めた。
維新の過程において、廃仏毀釈運動がますます盛んになり、寺院や仏像は壊され、経典は燃やされ、僧侶は還俗を余儀なくされた。その後、福田行戒や大谷光尊、赤松光映といった新仏教の先駆けとなった僧侶たちが、政府の宗教政策を批判した。また、真宗西本願寺派僧侶、島地黙雷なども宗教の自由を提唱し、明治22年に宗教の自由を認める法律が規定された。その後に現れた新興宗教は、(1)仏教系(2)神道系(3)混合宗教(4)外来の新興宗教の4種類に分けられる。
第二次世界大戦中、大部分の新興宗教は活動が阻止され、弾圧を受けたところもあった。戦後、信仰の自由が保障されたことで、各新興宗教が相次いで活動を展開した。
従来の宗教は学校や学術団体で研究が行われている他は「葬式仏教」という印象が否めない。有力な新興宗教教団は教義の体系化と施設拡張面で絶えず革新を繰り返し、海外布教も活発に行っている。比較的大規模な宗派には、日蓮系の創価学会、立正佼成会、霊友会、佛所護念会、真言宗系の真如苑、混合宗教のPL教団、天理教、神道系の出雲大社教などが挙げられる。
2.日本仏教の中国との縁
日本の仏教は、宗派がはっきりと分かれた仏教である。初期、日本仏教の各宗派は中国で創設されたものであったが、日本に伝わった後、徐々に各宗派が混合する状態へと変化した。「禅浄双修」「教禅一致」「八宗兼弘」など、信者も複数の宗派を兼学するのが常態であった。
しかし平安時代以降、日本の仏教徒の間で一宗一派に拘る傾向が高まった。例えば念仏を唱える人は坐禅を行わず、坐禅をする人は念仏を唱えず、天台宗は天台宗、華厳宗は華厳宗といった具合に他宗派の混入を絶対に認めず、一宗を専修するというのが日本仏教の特徴となった。
日本の初期の仏教では、僧侶は葬式に参加しなかった。中世に禅宗が伝わった後、中国の葬礼法が伝わり、僧侶が死者の葬礼を司るようになった。その後浄土信仰の普及により、葬礼を取り仕切ることが僧侶の重要な職務となった。
日本の仏教は古来から伝わる神道思想と同化・融合し、いわゆる「本地垂迹説」という考え方が生まれた。本地垂迹説とは、神は仏の化身であるという考え方で、神は仏陀であり、神仏を一体とし、仏が神の形を取って現れたとした。このようにして、仏教と神道の間に共通の領域が生まれ、神道も仏教体系に組み込まれた。
日本の仏教の初期の「教理」や「実践」は、中国の伝統を踏襲している。天台宗の「円頓戒」や浄土真宗の「信念主義」、禅宗の「生活即仏法」、密宗の「即身仏」などの教理は中国由来の物だ。
仏教が初めて伝わったときから、日本は国として仏教を受け入れ、仏教事業を起こし、それが国民まで広まった。仏教は社会の各階層に自然と入り込み、宗教レベルの信仰だけでなく、人々の生活に溶け込んだ。日本人の冠婚葬祭は全て仏教と密接な関係を持っており、日本の文学、剣道、茶道、絵画なども仏教の影響を強く受けている。
日本の仏教は今に至るまで「在家化」という特色を持っている。最澄が主張した「真俗一貫」、空海が主張した「真俗不離」、親鸞が提唱した「在家仏教」などからも、日本の出家・在家の堺に対する概念があいまいであることが伺える。日本の僧侶はほとんどが妻を娶り子をもうけている。このような現象は日本仏教の大きな特色となっているが、仏教の原点が失われているとも言える。
李 暁亮(LI Xiaoliang):淄博職業学院図書館講師
中国山東省淄博市生まれ。
1999.9-2003.6 山東理工大学文学院 学士
2003.7-2008.8 淄博職業学院音楽表現系 助教
2008.9- 淄博職業学院図書館 講師