【20-08】中国古典学の視野から見た日本の近代儒学(三)
2020年5月15日
朱新林(ZHU Xinlin):山東大学(威海)文化伝播学院 副教授
中國山東省聊城市生まれ。
2003.9-2006.6 山東大学文史哲研究院 修士
2007.9-2010.9 浙江大学古籍研究所 博士
(2009.9-2010.9) 早稲田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11-2013.3 浙江大学哲学系 補佐研究員
2011.11-2013.3 浙江大学博士後聯誼会 副理事長
2013.3-2014.08 山東大学(威海)文化伝播学院 講師
2014.09-現在 山東大学(威海)文化伝播学院 准教授
2016.09-2017.08 早稲田大学文学研究科 訪問学者
2018.10-2019.01 北海商科大学 公費派遣
(その2 よりつづき)
三、江戸時代の朱子学
江戸時代(1603-1867)に入ると、宋学は徐々に仏教の禅学の束縛から抜け出し、独立した発展の道を歩むようになった。「宋学」とは、主に朱熹を代表とする絶対的な理を重んじる哲学と、陸九淵を代表とする主体的な理を重んじる哲学を指す。このうち、日本の学者は朱熹の哲学思想を「朱子学」と称した。陸九淵の哲学は明代に王陽明により発展され、「陽明学」と呼ばれるようになった。
日本における朱子学の起源については、日本の研究界には二つの学説がある。一つは、藤原惺窩を代表とする近世の儒学を朱子学とするものである。もう一つは、『日本思想大系』第28巻の編集者である石田一良が提唱している、朱子学の開祖は藤原惺窩の弟子の林羅山であるとする説である。一方、中国の研究者、湯勤福はこれら二つの学説に賛同せずに朱子学の範囲を拡大して考え、朱熹の学説を信奉し、それを研究し、広めさえしていれば、それを朱子学の起源として見なしてよいと考えた。彼の基準に照らせば、遅くとも1180年代に日本の僧侶(たとえば弁円)が朱熹の著作を日本に持ち帰ったことを日本における朱子学の起源と見なすことができる[1]。筆者は、石田一良の見解は、近代儒学と朱子学の間の関係を切り離すものだと考える。湯勤福の学説は、主に朱熹の学説である存在論とその伝播の通次性を手がかりにすれば成立しうる。しかし、ひとまとまりの文献集として、朱子学の座標を定めることは極めて重要なことと考える。日本における朱子学の発展の大筋を示し、文献の編纂上の利便性に資するためには、やはり日本の研究者たちの伝統的な考え方を採用し、藤原惺窩を日本の朱子学の開祖とするべきである。
日本の近代儒学または朱子学の開祖は藤原惺窩である。彼は日本の儒学を仏教の従属から独立させて世俗の学問にした。その象徴的な役割については多くを語るまでもない。若い頃から禅学を研鑽し、後に宋儒(宋代の儒者の総称)の著述を学び、仏教は天理に背き、人倫を軽視していると考えた上に、五山の僧侶の堕落について多くの批判をした。藤原惺窩は朱子の「理一分殊」、「格物致知」および「居敬窮理」の説を継承したが、具体的な運用においては柔軟性があった。たとえば、「理一分殊」については学問を解釈し、治めるための方法として用いたが、学問の道は墨家の「兼愛」や仏教の「平等」のように「理一」だけで治められるものではなく、揚朱の「為我」のように「分殊」のみで治められるものでもないと考えた。揚朱は朱子の説を主張したが、陸・王の説を排除するものではなく、両者は「其言似異而入処不別(其言異なるに似て、入処別ならず)」(『羅山文集・惺窩答問』)、「同天理為公,同人欲為私(天理を同じく公とし、人欲を同じく私とする)」(『惺窩文集・答林秀才書』)と唱えた。惺窩はさらに通商貿易について定めた『舟中規約』を記し、儒家の性理学の説を経済面にも運用した。
惺窩の門下には多くの弟子があり、林羅山、松永尺五、那波活所、堀杏庵、石川丈山の五人が最も有名である。惺窩はさまざまな場所に住み、それぞれの地域で朱子学を広め、異なる朱子学派が築かれた。なかでも林羅山は、宗教的色彩を持ち、「修身・斉家」(自らの行動を正しくし、家庭を整える)を身に留める藤原惺窩の朱子学を「治国・平天下」(国家を治め、添加を平和にする)という高みに至らせ、朱子学で最も代表的な学者となった。羅山は、理とは内在する「本然の性」であるとともに社会の基本的関係である「五倫」の規範であると考えた。羅山は、陸九淵と王陽明の学説を非難し、仏教の教義を批判して現実性を強調した一方で、神道と儒学を調和させた神道を説き、神道とは王道であり、王道とは儒道であり、両者にはもとより区別はなかったとするとともに、「神道即理也(神道すなわち里なり)」(『神道伝授』)と説いた。彼は、朱子学の政治的・道徳的意義を発揮し、朱子学と日本固有の信仰との結びつきを主張することによって、日本における朱子学の正統化、国学化を促進した。羅山の設立した弘文院(後の昌平坂学問所)は江戸時代における儒学教育の最高学府となり、一世を風靡した。幕府の政治顧問を担当した時期に、彼は徳川時代早期における各種の礼儀、政令および規則制度の制定にかかわった。後に、羅山の孫である林鳳岡(林鵝峰の次男)が大学頭に任じられ、幕府のために公文書を起草し、儒学を説いた。大学頭の官職は林家が世襲することとなり、林家の学は幕府公式の学問を代表するものとなった。
元禄年間(1688-1704)と亨保年間(1716-1736)は、日本の朱子学が発展した黄金期であった。松永尺五は加賀藩主の前田光高に招かれて金沢で朱子学を講じ、金沢一帯の京学(朱子学の一派)の開祖となった。その弟子の木下順庵は藤原惺窩以来の学風を継承したが、朱子学に固執せず、十三経の注疏を重視した上に、陽明学の学説を排除しなかった。教育の面においては、彼は人に応じた教育を施し、弟子それぞれの強みと長所を引き出す。その門下からは英才が輩出され、「木門の五先生」と呼ばれた新井白石(典詁に長ずる)、室鳩巣(経義に長ずる)、雨森芳洲(言語に長ずる)、榊原篁洲(技芸に長ずる)、祇園南海(詩画に長ずる)がいる。そして、この「五先生」と合わせて「木門の十哲」と呼ばれたのが南部南山、松浦霞沼、三宅観瀾、服部寛斎ら一流の学者である。なかでも代表的なのは、新井白石と室鳩巣である。新井白石は政治家で、学者でも詩人でもあり、徳川綱豊を補佐した頃は儒家思想を指針とし、「使民以時(民を使うに時を以てす。農閑期に民を使うこと)」を主張し、民の利を奪わず、儀式典礼の整備や貨幣改鋳を行い、社会の秩序を安定させた。白石は博学かつ多才であり、『古史通』、『読史余論』、『藩翰譜』、『采覧異言』、『西洋紀聞』、『蝦夷志』、『白石詩草』等、史学、西洋学、地理学、文学の著作が数多くある。また、室鳩巣は幕府を擁護し、朱子学の立場から「忠義」の道徳思想を唱え、著書『赤穂義人録』、『六諭衍義大意』、『五常名義』、『五倫名義』のいずれにおいてもこの点を体現している。彼は無神論を主張し、神道に反対した。晩年にはさらに自我意識や君臣間の関係、君民間の契約等の問題を論じ、一定の進歩的な意義があった。上記の京都を中心とした朱子学は一般に京師朱子学とも呼ばれ、江戸時代における儒学の最も重要な学派の一つであった。
京師朱子学のほかには、南村梅軒[2]の始めた海南学派を谷時中、野中兼山、小倉三省、山崎闇斎らが発展させ、この学派は日本における朱子学の重要な一派となった。山崎闇斎は朱子学を極端に尊奉し、朱子学の原著の研究・体得を主張し、「敬内義外」説を唱え、自らの実践を重視した一方で、垂加神道を創始し、朱子学における「敬」の理論を展開し、神儒融合(神道と儒教の統合)および神儒「妙契」論を主張し、神道を「神国」と融合させ、忠君報国の思想を提唱した。闇斎はその厳格な教えにおいて名高く、門下には優れた人物が多い。なかでも、朱子学と密接な関係のある者として真っ先に挙げられるのは「崎門三傑」の佐藤直方、浅見絅斎、三宅尚斎である。この三人はいずれも闇斎の思想のうち神道には反対したが、その一部を受け入れた。佐藤直方は朱子を盲目的に尊奉する教条主義を発展させ、浅見絅斎は厳粛主義と忠君報国の思想を進展させ、三宅尚斎は闇斎の神秘主義を進展させた。
海西朱子学、大阪朱子学、水戸朱子学も日本の朱子学の重要な流派である。安東省庵、中村惕斎、藤井懶斎、貝原益軒らを代表とする海西朱子学は一つの学派にとどまらない。彼らには師は存在せず、比較的自由な学風を持ち、倫理・政治面で朱子学を堅持する一方で、陸・王ら各学派の学説も採用した。また、彼らは仏教と神道に反対し、経験科学を重視した。特に、貝原益軒は理性的な態度で朱子学を捉え、85歳にして記した『大疑録』では朱熹の「大疑則可大進,小疑則可小進,無疑則不進」(大疑は大進すべし。小疑は小進すべし。疑わざれば進まず)という観点を引用し、宋儒の「祖述孔孟」(孔孟の祖述)を肯定し、「出於仏老」(仏教・道教による)の傾向を批判した。
このことは、日本の近代における実証科学の登場に哲学的な基礎を提供するものであった。
大阪朱子学は学問所の懐徳堂を中心とする学派であり、代表的人物に中井甃庵、三宅石庵、五井蘭洲、中井竹山、中井履軒、富永仲基らがいる。この学派は林家や闇斎の学派とは異なり、基本的には朱子学の立場に立ちながらも陽明学を重視し、経典の原文における不合理な点には意見を提議し、各学派を融合する傾向が顕著であった。たとえば、中井履軒は『七経雕題略』の序において、「好新奇而厭故常(新奇を好み、慣例を厭う)」(徂徠学)、「安故常而憎新奇(慣例に安んじ、新奇を憎む)」(林家学)、「剛戻好為物敵」(闇斎学)のいずれも経典として論じることはできず、ただ「平心読書,不生愛憎於新故,不岐信於耳目」によってのみ聖人の経典を解読できるとした。富永仲基は、極めて独創性の高い思想家として、神道、儒学、仏教の三教はいずれも根本的には「誠」に帰するが、インド、中国、日本の風土や人情に応じてそれぞれの国民性を有すると考えた。すなわち、インドは幻想を好むことから、仏教には奇抜で不可思議なことが多く存在する。一方、中国の儒学は礼楽の文飾を好み、瑣砕細膩を免れていない。他方、日本の神道は質朴で、性急に過ぎる。このため日本では、儒家と仏教の理論を引き写しにはできないと指摘した。
水戸学派は前期と後期の二時期に分けられ、前期は水戸藩主、徳川光圀が中心となって編纂した『大日本史』を起源とする。徳川光圀と他の編纂者である安積澹泊、粟山潜峰、三宅観瀾らは明末の遺臣であった朱舜水の影響を受けて儒家の学説と国家正統性の観念を吸収し、『大日本史』の全書を通じて大義名分論による尊王思想を貫徹した。後期の水戸学派は徳川斉昭、藤田東胡、会沢正志斎らを代表とする。常陸水戸藩の第九代藩主である徳川斉昭は弘道館を設立し、学校を建設して人材を育成し、儒学、国学等の思想のみならず、天文、医学等の自然科学の知識も教育した。彼は『弘道館記』において「奉神州之道、資西土之教(神州の道を奉じ、西土の教を資て)」と主張し、「敬神崇儒」、「忠孝無二」、「文武不岐」等の思想を提議し、朱子学の日本化を推進した。会沢正志斎には七章からなる著書『新論』があり、上、中、下の三章に及ぶ「国体篇」では忠孝(忠誠・孝行)・建国、尚武(軍事を重んじる)、重民(民を重んじる)等の思想が特に強調され、尊王攘夷の思想が頂点に引き上げられた。
日本では朱子学の発達によって学問がおおいに発展し、さまざまな意見を持つ思想や学派が出現したのも自然の流れであった。たとえば、伊藤仁斎、荻生徂徠らによる古学派や宇野明霞らの折衷派は、朱子学が古い観念にとらわれ、空疎で固陋な一面があると批判した。一方、朱子学を正式な学問とした徳川幕府から見れば、これらの考えは疑う余地もなく異端邪説であったことから、林家が世襲した大学頭によって主管された幕府の学校では、他の学説を講ずることを厳しく禁じた。それだけでなく、地方の藩学でもこれに倣って異学に対する禁止令が敷かれ、異学および関係の者が強く排斥され、攻撃された。これが「寛政異学の禁」である。異学の禁における朱子学の代表的人物は、「寛政の三博士」と呼ばれた柴野粟山、古賀精里、尾藤二洲であった。彼らは幕府に倣って異端を懸命に攻撃したが、学術面においては多少なりの創見もなく、ほとんどは朱子学派の学説を抄録したものであった。たとえば、古賀精里は著作『大学章句纂釈』の序において「子朱子集羣賢之大成。以注四子。然後其義昭晣悉備。學者苟能熟讀詳味。身體而力行之。則可以爲聖爲賢。豈待後人之發明哉(子朱子〈朱熹〉羣賢〈賢者〉の大成を集め、以て四子〈四書〉を注す。然る後其の義昭晣にして悉備なり。学者苟くも能く熟読し詳味すれば、身体而して之を力行す。則ち以て聖を為し賢を為すべし。豈に後人の発明を待たらんや)」と記した。また、関西の頼春水と西山拙斎も異学の禁に熱心に倣った。頼春水は、朱子学をして「本天道,主人倫、本末兼備,伝之無弊(天道に本づき人倫を主とし、本末兼備し之を伝え弊無し)」(『春水遺稿』巻十 学統論)と見なした。このような風潮の影響を受けて、寛政以降の朱子学は、それ自体が生命力を失って没落し、安積艮斎と頼山陽のみが朱子学の分野で功績を立てた。安積艮斎は、「寛政の三博士」と同様に朱子学を尊奉しつつ、四書六経は単に個人の著作にとどまるものではないことを指摘し、聖賢は往々にして時代に応じて教えを立て、時代が異なれば教えも異なることを唱えた。「儒者之道」は孔孟の教え、朱子学のみの道にとどまらず、仏教・道教、管商(管仲と商鞅)・申韓(申不害・韓非)の道でもあり、公正と不統一の違いがあるのみである。このため、彼は『艮斎閑話』において「道ハ天下ノ公道ナリ,学ハ天下ノ公学ナリ,孔子孟子ノ得テ私スル所ニ非ズ,博ク天下ノ善ヲ取ルベシ......」と述べた。一方、頼山陽は朱子学を頑なに守ることはなく、古代の聖賢に通じる説を立てるという大義を重要な任務として実用・実学を重視し、人柄、学問、著述のいずれも「実用性」が必要であると主張した。山陽は史学に長じ、著作に『日本政記』、『日本外史』があり、その「天治主義」と「民本主義」の融合した歴史哲学が集中して体現されている。
明治時代後期、高瀬武次郎の『日本之陽明学』(1898)、井上哲次郎の『日本陽明学派之哲学』(1890)ならびに三宅雪嶺の『王陽明』(1893)、『伝習録』(佐藤一斎の伝習録欄外書)等の一連の著作の出版、さらには雑誌『陽明学』の刊行(1894)によって、朱子学に代わって陽明学が東アジアの学術分野において一躍して主導的な地位を占めるようになった[3]。「江戸時代全体を通じて、日本の朱子学は多重的なイメージの変遷を遂げた。江戸初期、朱子学は『実理の学』として日本の知識層に重視されて引用された。江戸中期になると『真儒の学』として表現され、日本の知識層が身分を確立する際の象徴となった。そして江戸末期には国体を確立し、外来の文化的衝撃に対抗するための『正統の学』として位置づけられた」[4]。
こうして見ると、日本における朱子学の発展は、中国の宋明時代の儒学思想の現地化のプロセスでもあったことがわかる。日本の儒学または朱子学が本当の意味で繁栄した時期は江戸時代であり、中国の理学(儒学)に比べれば二百年あまり遅れるが、その特殊な文化的・社会的背景によって中国の儒学とは異なる発展の道をたどった。たとえば、儒学と神道思想の融合や、仏教・道教と陸・王の双方の思想を尊ぶ相対的に自由な学風、文武両道に基づく富国強民の学説、忠孝一致と尊王攘夷を旨とする政治・道徳思想、実践と実用を重視する価値基準のいずれもが日本の近世社の発展と変遷に大きな影響を及ぼしているため、研究を深める価値がある。
また、ここで指摘すべきは、朱子学が徳川幕府の公式の学問であったかどうかについては、研究界でも意見が分かれているということだ。朱子学は徳川幕府の頃の正統的な意識形態であると長らく認識されてきたが[5]、実際には徳川時代に政治・文化の分野で首位を占めたのは神道と仏教である。儒学は日本社会において、社会統治に関して知識を教化する面においてのみ限定的な役割を果たしたに過ぎず、神道と往々にしてつかず離れずの関係を保ってきたものと考えられる[6]。
[1] 湯勤福「日本朱子学的起源問題」、『南開学報』、1994年第4期。
[2] 南村梅軒は16世紀半ばの人物であり、その生没年は未だに明らかにされていない。室町時代末期の周防国の大内氏の家臣であり、一説に禅僧の桂庵に朱子学を学んだとされる。南学の祖とされる。
[3] 吉田公平「王陽明研究史」、岡田武彦『陽明学の世界』、457ページ、明德出版社、1986年。
[4] 吴光輝、肖珊珊、「日本江戸時代朱子学的表像與位相」、『厦門大学学報』、2016年第1期。
[5] 李守愛「論朱子学対江戸時代現代意識的啓発」、『日本学刊』、2007年第4期。
[6] 呉震「東亜朱子学的回顧與反思」、『杭州師範大学学報』、2019年第1期。
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