日中交流の過去・現在・未来
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【07-01】日中両国の学者、有識者の交流

山岡 建夫(JUKI株式会社代表取締役会長)  2007年7月20日

 昨年10月の安倍首相の訪中で、日本と中国の関係は大きく改善されました。日中共通の利益に立脚した戦略的互恵関係の構築が合意され、国交正常化以来最悪と云われたこの数年間の両国関係は、着実に修復されつつあります。

 今年の4月には、中国の温家宝首相が来日されました。温首相は、昨年の安倍首相の訪中を「氷を砕く旅」と表現し、自分の訪日を「氷を溶かす旅」にしたいと述べ、その様に日本滞在中行動されました。その最も重要であったものは、4月12日の国会演説であり、日中両国のテレビで同時中継されました。その中で「国交正常化以来、日本政府と日本の指導者たちは、何回も歴史問題について態度を表明し、侵略を公に認め、そして被害国に対して深いお詫びを表明しました。中国政府と人民はこれを積極的に評価しています」、そして「中国人民は日本国民と仲良く付き合わなければなりません」と言明されました。

 その夜、温家宝首相は都内のホテルで開催された歓迎レセプションでの挨拶の中で、国会演説のあと最初に中国へ電話をかけたのは90歳近い御母上に対してであり、「演説はどうだったでしょうか」と聞いたところ、「とてもよかった、心を打つ話だった」とほめられことを披露されました。私もそのレセプションに参加しておりましたが、会場には大きな拍手がわきあがり、実に和やかな雰囲気となりました。

 この数年間、日中両国国民の相手国に対する意識は「反日」、「嫌中」というような言葉に象徴される様に、各種調査の結果からも実に厳しいものがありました。今後、両国首脳が活発な交流を推進し、複雑な国際社会の中に在って、他の国々が見ても、政治分野も含めて日中関係は安定していると感じられる様に行動してもらいたいと念願しております。 

 日中関係で特にデリケートな課題は歴史問題です。その中でも両国間で近現代史の歴史認識を客観的に議論することが最重要であると思います。第二次世界大戦後、ドイツとフランスでは、その努力が為された結果、より良い両国関係が醸成されたと云われております。

 昨年の安倍首相の訪中の折、胡錦濤主席との会談で、「日中歴史共同研究」が日中両国の将来の為に重要であるとの共通認識により合意されました。両国外相会談で具体的な活動を開始することが決定し、両国各々10名の有識者が選任されました。 

 その内容は外務省のホームページで公表されておりますが、日中両国首脳の共通認識を踏まえ、歴史を直視し未来に向かうとの精神に基づき、共同研究を通じて客観的認識を深めよう、長い日中交流の歴史を見つめ直していこうというプロジェクトです。 

 特に最大の論点となるであろう近現代史の部分では、戦前、戦中、戦後について、両国の学者、有識者が、それぞれ日中関係を良くしたいという共通の思いのもとに、研究を進めておられます。 

 相互に論文を書いて、お互い素直に批判し、合意した部分は書き直し、意見に相違がある部分はその論点と理由を明記するなど、歴史認識を客観的にする共同研究の基本が討議されたそうです。 

 誠にご苦労の多い研究と予想されます。事実をもとに、忘れ難い、思い出したくない事柄が多々あるとしても、事実を体験した人、知っている人たちが存命中に、記録が残っている間に行わなければならない研究です。現代に生きる、両国の大人の責務であると私は思います。

 私事にわたりますが、日中の歴史認識を考える時、私がよく思い出すことがありますので、紹介させて頂きます。

 私の父は、日中戦争当時の1938年2月から翌年の11月迄、民間人として北京に滞在しておりました。北京では、数多くの中国の人達との交流があった様で、中国と中国の人達に父は終生、特別な敬愛の念を持っておりました。私たち子供にも「中国は永い歴史のある国で立派な人が多い国であり、日本は地理的にも隣国なので、中国との友好関係を大切にしなければならない」と常々話しておりました。

 当時、在北京の日本人の間で、1940年(昭和15年)が日本の紀元2600年にあたるので、大規模な紀元節奉祝会を公会堂で挙行する計画が進められていたそうです。

 その計画を知って、日本の大学に留学経験のある一人の中国人が、北京での奉祝会開催中止を敢然として表明したそうです。父は、その中国人と面談した日本人からそのことを知らされて、大変心を打たれたそうです。その論旨は明解で、概ね次の様であったそうです。

  「北京の紫禁城に図書館があり、そこには、3000年を超える中国の文献が残っている。お国では建国2600年と云っているが、中国から文字が日本へ渡って、千七、八百年しか経っておらず、それ以前の記録は無いはずだ。その前の文献は無いものと思われるのに、それを2600年と云われるのは、お国では信じられようが、中国では中国人は信じない。もし奉祝会が実行されたら学者の笑い草にされたりする。お国の誇りにも傷がつく。ぜひ、おやめ頂きたい」と、真剣、誠実に忠告されたそうです。

 父は、その中国人の方の見識に感銘を受けた様で、何度となく話してくれたことを、私は良く覚えております。

 なお、昨今では、紀元節について日本でも知っている人が少なくなりましたので、三省堂の大辞林を参考にして記述しますと、「日本書紀の伝承による、神武天皇即位の年(西暦紀元前660年)を元年として、日本の紀元を起算したもので1872年(明治5年)に制定」の由です。

 1940年、日本では紀元節祝賀の行事が行われたそうで、今でも各地に記念碑を目にすることがあります。昭和15年生まれの子供には、紀元節に因んで「紀雄」、「紀子」という名前の人が多いと云われております。私も昭和15年生まれで、当然のことながらその年の記念行事についての記憶はありませんが、小学校の頃から、数多くの「紀」の字のついたクラスメートを知っております。

  実利を離れ、学問研究に従事してこられた日中両国の碩学によって、「日中歴史共同研究」が進められ、事実を分析し、後世に残る論考が上梓されることを心から願っております。

 それと同時に、JST中国総合研究センターの様な組織を通して、専門知識の深い日中両国の学者、有識者の交流が、益々活発になることを期待しております。

yamaoka

山岡 建夫 (やまおか たけお):
JUKI株式会社代表取締役会長

略歴

慶應義塾大学商学部卒業。(株)富士銀行、東京重機工業(株)(現社名:JUKI株式会社)取締役、常務取締役電子機器本部長、経理部長、工業用ミシン本部長、代表取締役専務、代表取締役社長を経て、現職。 
(財)日中経済協会副会長、(社)経済同友会幹事、(社)日本経済団体連合会評議員、(社)海外技術者研修協会(AOTS)評議員、(財)ファッション産業人材育成機構理事、(財)日 本ファッション協会評議員、(財)日本科学技術連盟理事。