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【09-010】日中自動車技術交流の25年

2009年9月9日

渡部 陽

渡部 陽(わたなべ あきら):日中自動車交流協会 理事長

1928年5月 東京生まれ。日中自動車交流協会 理事長、NPO法人熟年ものづくり国際協力センター、西安交通大学顧問教授、西安国際学院兼職教授、浙江汽車学院名誉教授。1 951年 早稲田大学第一理工学部機械工学科卒、同年 いすゞ自動車株式会社入社。小型車開発部門担当役員、中国技貿結合プロジェクト開発担当、いすゞ米国研究会社社長、いすゞ中央研究所相談役を歴任。清 華大学ほか中国の大学研究所での指導、国際協力事業団開発調査総括を担当。著書として「巨大化する中国自動車産業」日刊自動車新聞(2009)共著、「中国自動車産業と素形材産業の在り方」機 械工業経済研究報告書(2007)共著、「これからの対中ビジネスは人づくりから」日中経済ジャーナル(2006)。

 1978年から導入された中国改革開放路線の自動車産業への実施は1980年代の前半からはじまった。以降、約四分の一世紀を経て中国の自動車生産は30倍となり、2 009年には世界一に達すると予測されている。この発展を日中自動車技術交流から顧み、今後の展望を考察する。

1. 中国自動車産業発展と日本の技術協力の25年

 1980年の始め、技術貿易結合(技貿結合)という方式で日本から大規模な自動車技術移転が行われた。これは日本の自動車メーカーがトラックと主要装置の図面を中国政府、当 時は中国汽車工業進出口公司と中国汽車工業総公司に供与し、対価として当時としては多数の日本製トラックを中国が輸入するという方式であった。一 般企業間の技術供与と異なり提供元は日本の企業であるが移転先は中国政府機関であった。このような大規模な技術移転は初めてであり、その後の中国自動車産業に与えた影響は計り知れない。中 国への自動車技術移転は欧米が先行していたが、その方式はモデルチェンジなどで不要となった旧型車の図面や冶工具など、場合によっては中古工場全体を安く売却するというものであるが、日 本ではこのような設備廃却を行わず最新技術が移転されるので中国側から高く評価された。主な移転内容は、いすゞ自動車は小型トラックと小型ディーゼルエンジン、日野自動車はトラック用変速機、日 産自動車がトラック用キャブ、ガソリンエンジンであった。当時の中国はトラックが主力であった。その他、企業間での技術提携契約によるダイハツ工業のハイゼットの技術などが導入された。

表1 主要国の年間自動車生産台数推移(単位 1,000台)

表1 主要国の年間自動車生産台数推移(単位 1,000台)

JAMA統計データから作成

 筆者は当時いすゞの技貿結合プロジェクトの技術責任者として、初めて中国ビジネスに関与したが、この時から形は変ったが25年にわたり交流に携わることになった。

 1985年の中国の自動車年間生産台数はまだ33.1万台、日本は1,230万台で世界一を誇っていたが2009年には中国は年間1,000万台を越え日本、ア メリカを抜いて世界一になると予想されている。いすゞが中国に供与した技術は中国の何処の企業でも使用できる条件であったので、その後中国の18企業が類似の小型トラックを生産しており、下 のクラスも入れた小型トラックの総生産は2007年には100万台を越え、20万台が輸出されるという世界第一位に到達している。同 じく2.4リッターの4B型ディーゼルエンジンは中国全土で標準エンジンとなっている。

 先ず導入に当たっては日中合同チームが結成され海南島のテストコースで耐久試験が行われた。このテストコースは規模においても国際レベルであり、耐久試験はベルギアン路といわれる石畳の悪路で行われた。北 京から海南島までの往復走行も合わせると試験走行距離は15,000kmに達し、中国の様々な道路事情への適合性もチェックされた。外国車のテストとして最初のものであった。こ の技貿結合によっていすゞは2万台の小型から大型トラックを輸出することが出来た。

 このとき筆者等は清華大学で自動車工学の講演を行ったが、これがその後の大学との交流の契機になった。

写真1 中国現地試験

写真1 中国現地試験

 1992年、筆者は清華大学から自動車工学の集中講義が依頼され、年2回に分けて同校のほか西安交通大学、雲南工科大学でも実施した。技貿結合の結果、北京市の企業は小型トラックとエンジンの生産を始め、6 いすゞは研修生の日本での教育を受け入れた。北京市には世銀の融資で自動車研究所が設立され、技貿結合によって国産化されたアクスル、ミッションなどの部品の技術評価試験、車両の走行、排 気ガス試験が行われ筆者も指導に当たった。

 1984年に訪問した頃の清華大学自動車工学部は自動車の運動力学、衝突安全、振動騒音、歯車理論などの車両分野に優れていた。自動車理論の第一人者の余志生教授は産官学の指導者であった。1 992年に再訪したときはエンジンの郭少平教授が学部長で新しくエンジンを主とした自動車研究所が新設された。フォードの基金が入っており、ガソリンエンジンの電子制御やエンジンの診断装置の研究を行っていた。ま た大学傘下に清華紫光集団という大学ベンチャー集団が出来て筆者は顧問として自動車運転シミュレータの開発を支援した。

 1995年に清華大学は中国初の自動車衝突試験を北京市長立会いの下に実施した。ゴムロープで引っ張り、世界基準の米国FMVSS201に則って衝突壁(バリア)に衝突させた。

写真2 中国発の自動車衝突試験

写真2 中国発の自動車衝突試験

 テスト車は北京ジープと小型バン型乗用車であった。牽引装置は手製の一見プリミティブな方法であったが、高感度カメラで解析していた。その頃清華大学ではNC加工システムの大規模な開発を行い広大なパイロット工場が稼動していた。これは国家プロジェクトであり中国各地の企業に国はその成果を移転した。

 当時いすゞ自動車は清華大学自動車工学部の修士卒業生をいすゞ開発部門に2年間研修として受け入れ、その多くは清華大学に戻って教授となった。そ の一人の宋健教授は副学長となり中国自主開発のABS(Anti skid Brake System)の量産化に成功した。その後いすゞは上海交通大学吉林大学からも研修生を受け入れた。現 在では在日中国人は日本の自動車メーカー各社に開発部門の社員として勤めており、その数は数百名であると推定される。

 西安交通大学上海交通大学のエンジン部門が移転し当時学長の蒋徳明教授は「内燃機関理論」の著者で中国内燃機関学会の重鎮で、現在も清華大学に兼任している。群 馬大学および米国の大学とのエンジン研究の交流が長く続いている。上海交通大学にも日本の内燃機関の教授の多くが顧問教授に迎えられている。近年再び強化され、上 海郊外の広大なキャンパスに中国でも最大級の実験設備を建設した。

 1999年、筆者は日本国際協力事業団の中国中小企業振興開発調査の総括として2年間従事した。当時、掴大放小政策によって中国民営企業がようやく国家に認められ、中 国は日本が世界に誇る中小企業振興政策を参考とした中小企業促進法を2002年に制定し、中央に中小企業司を設立した。中国建国以来の産業改革開放の最も重要な転機となった。調 査はモデル都市として瀋陽市と杭州市が選ばれた。夫々国営と民営体質という対比が著しかったが中国企業を理解するうえで貴重な経験となった。日本側から40名以上の専門家が参画し、企業診断・指 導企業は瀋陽だけで500社、自動車関連企業25社であった。その頃中国は経済発展が顕著で、ODAの対象から外され5年間の計画は継続が中止された。

2. 最近の活動 日中自動車交流協会

 その後はボランティア団体の草の根活動になる。

 2004年に日中産業教育研究会が創設され日本大学グローバルビジネス研究科の支援によって、自動車企業OB、ものづくり関連のコンサルタント、中 国人留学生などが参加して日大の会場で定期的に講演会と交流懇親会を開催した。

 現在の日中自動車交流協会は自動車技術に特化することで2006年9月26日の日中国交回復記念日に創設された。日中自動車交流協会は在日中国人の大学、研究所の教員、研究員などから提案され、日 本側は中国留学生と係わり合いの大きい大学教授或いは中国の大学の顧問教授等の参加を得て、日中産業教育研究会の会員を引き継ぎ設立され、事務局を東工大に置いた。

 他にも、経済学者或いは経営学者を中心としたいくつかの中国自動車産業研究会が活動しているが、当協会は自動車会社開発部門OB、理工系大学が中心となっている点が特徴である。最 近は自動車技術会との連携によって交流の輪を広げている。

 日中自動車交流協会の大きな特色は日中の主要大学との絆による信頼関係によって結ばれていることである。本協会の顧問、理事の多くは中国の主要大学で顧問教授として深い交流があり、ま た何人かの教授は多くの中国人留学生を研究室で育て、彼等は現在中国内の産学界において重要なポストについている。

(1) 自動車技術教育支援

写真2 中国発の自動車衝突試験

写真3 建設中の中国自動車大学

 自動車工学について、中国と日本の大学との大きな差がある。中国の著名校には少なくとも19の自動車工学部があるが日本にはようやく最近創設された数例を除き皆無であるといえる。2 006年の中国の自動車工学部在籍学生数は25,073人に及ぶ。

 中国は旧ソ連スタイルの産業構造を取り入れていて、企業は生産、大学、国立研究所が研究開発を分業するシステムであり、現在でもその基本構造が続いている。国 家主要自動車研究所数は25ありその研究員数は24,664人である。(2006年)

 以上のように中国では自動車の専門研究者の数は多いが産業の発展への寄与度が低い。それは中国の教育が余りにも専門に分化され過ぎているためである。近年有名大学が合併により総合大学に改革されている。も う一つは研究型大学と技能職業訓練学校の中間専門学校の必要性である。自動車で言えば車両整備やものづくり技術である。我々協会はこの分野に係る人づくりに重点をおいて活動した。

写真2 中国発の自動車衝突試験

写真4 西安国際大学自動車学院の実習教材

 広東省広州市は日系大手自動車企業の牙城となっている。広州市には既存の華南理工大学の技術支援を受けて私立大学である華南理工大学自動車学院が78億円をと投じて2006年に創立された。協 会はカリキュラム提供などの協力をこの学院に行った。

 協会は青島技能専門学校の発展計画にも協力した。

 西安市には私立大学としてトップクラスである西安国際大学が2008年4月に自動車学部を新設した。協会は日本のシラバスなどの情報を提供して協力した。協会理事である北海道自動車短大、中 日本自動車短大の元校長が客員教授として迎えられた。

 中国は1989年に「中華人民共和国高等教育法」を制定し、重点大学の高度化、市場化への対応、技能教育の重視、遠隔教育を重点項目に取り上げた。2003年には「中国と外国の合作による学校運営条例」が 公布され教育の対外開放が図られている。

(2) エネルギー・環境・安全技術交流

写真5 日中自動車サミットラウンドテーブル

写真5 日中自動車サミットラウンドテーブル

 2007年1月には日中大学ベースの会議を天津大学清華大学で開催し、主として日本側からエンジンの燃費・排気ガス対策、軽量化の最新の技術を紹介した。2008年4月の会議は楊州で行われ、中 国は著名大学8校、日本は大学3校、企業6社が参加し2日間で19の講演発表が行われた。この時から自動車技術会の協賛を得た。

 2008年12月には湖南省長沙市において日中自動車サミットラウンドテーブルを開催した。日本側は経産省、自工会、自動車技術会、大学、大手自動車企業が、中国側は国家発展委員会、中国自工会、自 動車技術会、大手自動車企業、大学が参加し、総参加者は300人であった。12の講演のほか日中産学官代表のラウンドテーブル会議〈パネルディスカッション〉が行われ、日中自動車技術交流の輪が広がった。

3. 中国の自動車自主開発力

 中国の技術キャッチアップの経過を見ると、技貿結合などの技術移転とその習得消化からリバースエンジニアリングへ、90年代終わりからの海外への委託開発を経て、2 005年あたりから自主開発段階が始まった。

 民族系企業は提携先の外資系企業からの先進技術導入は困難となり始め、外資系には頼らないという姿勢が最近強まっている。現在中国国内での最大の話題は中国民族系企業の自主開発能力向上である。中 国は自動車生産において世界第一となったが,未だに自主ブランド車が少ない、研究開発能力が低い、重要自動車機能部品は外資系多国籍企業に依存している、品 質レベルが世界の標準に達していないなどの課題を抱えている。この対策として中国政府は新規自動車投資案件には5億元以上のR&Dセンター設置と自主ブランド車の自主開発を義務付けている。こ の政策によって民族企業の自主開発能力の向上、弱小メーカーの淘汰、外資企業からの技術導入の促進を図るものである。中国には数社の例外を除き世界の自動車メーカーと、多 国籍メガ自動車部品メーカー30社の大部分が進出し、1,000万台の中国での生産車の7割近くが外資系であり中国市場から大きな経済的恩恵を受けている。

 しかし中国には「他山之石可以攻玉」という諺のように外国の石から玉を作り出すというプライドがある。昨年、中国内燃機関学会は100周年を祝ったが、GM、T型フォードと同じ歴史である。中 国は80年ほど前の1930年に瀋陽で初の国産トラックを生産した。戦後の中国の自動車生産は長春の第一汽車廠から始まったが、当時のソ連は経済支援するだけの力がなく、中国は通常の完成車輸入、ノ ックダウン組立、国産部品の増大という一般的な方式がとれなかったことはその後の発展の大きな阻害となったことも事実である。

 反面第一汽車は強い自主開発意識を持っている。

4. 今後の展望

 2008年の世界経済の同時不況は、たまたま中国自動産業躍進の時期に発生しただけでなく自動車産業100年以来初の大転機と重なった。今 後の世界の自動車産業勢力マップは塗り替えられることは明白である。今後次のようなメガトレンドが考えられる。

  • 1. エネルギー・環境問題が自動車産業の持続的発展を支配する。また環境問題は気候変動の問題として地球レベルの問題となっている。
  • 2. 過去100年間続いた石油依存型の自動車は脱石油のため電動化に向かう。機械系中心の伝統技術から電機・電子、情報通信分野に移行する。このため製品自体も、開発・生産、調 達方式にも大きな技術改革がおこなわれる。

 しかし電動化は10年単位で段階的に行われるので国別、地域別、用途別に多種多様なエコカーが共存することになる。

  • 3. 機械から電機・電子装置の付加価値が高まり異業種の参入機会も高まりビジネスモデルも多様化する。
  • 4. 結果として従来のような大自動車メーカーによる抱え込みやフルセット化から技術のグローバル化、オープン化、拡散化が促進されると考えられる。

 このような技術革新とビジネス改革の時代において交流の役割は一段と重要性を増すであろう。

 我々の目指している交流とは人、もの、金、情報のなかで人と情報に関わる分野である。交流とはネットワークの構築、ネットワーク活用による情報、知識の偏在から情報の共有、伝播、人 の相互理解と信頼関係の長期の継続である。

 上記に述べたエネルギー・地球環境、レアアースなどの鉱物資源、世界貿易における中国の影響力は計り知れない。今や日本の貿易相手国として中国は最大となっているが、家電、I T産業に続き自動車産業についての日中の戦略的互恵関係への対応が求められている。

 日本の自動車産業の現地化は部品メーカーレベルまで進出が終わり、今後開発の現地化が一層進展すると想う。また中国からは留学生のほか多くの人材が日本の企業や大学で自動車の開発や研究に携わっている。ま た日本の大学や企業で学んだ人材が中国の大学や企業の指導者として活躍している。

 思えば我々技術者は戦後の自動車開発に当たって多くの技術を欧米から学んだ。その後世界各国の市場が日本の自動車に門戸を開いてくれたため我々が世界の自動車大国になったことを忘れることは出来ない。こ のような観点から国際協力貢献は重要であり、日中自動車交流協会は関連機関の協力を得て一層交流活動を広げて行きたいと思う。