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【20-019】北京水物語

2020年08月03日

斎藤淳子(さいとう じゅんこ):ライター

米国で修士号取得後、 北京に国費留学。JICA北京事務所、在北京日本大使館勤務を経て、現在は北京を拠点に、共同通信、時事通信のほか、中国の雑誌『 瞭望週刊』など、幅広いメディアに寄稿している。

 北京と言えばゴビ砂漠や黄土高原から風が吹き付ける乾燥した北の大地。洗濯物は数時間でパリッと乾くし、肌もカサカサしやすく、雨は夏に集中し傘の出番は少ない。90年代には水不足に悩まされた記憶も新しい。

 また、風土は人をつくるというが、北京の人は性格もドライだ。竹を割ったように単刀直入で飾らない。上海のつややかなシルクのような洗練度はないし、街にも広州の黒光りする漆器のような湿り気もない。冬は寒風に灰色一色で凛と耐える。

 さらに、生活に溶け込んだ水辺のシーンは東京では桜並木の川沿いやお堀など至る所にあるが、北京では公園の池のボート遊びやアイススケート位しか思いつかない。北京は潤いやせせらぎとは無縁の都市だと長いこと思ってきた。

 ところが北京は元々水の都だったと聞いて驚いた。昔は河川や池・湖が少なからずあったが、近年の開発によって姿を消したという。宅地や道路建設により川は蓋をされ暗渠化され、取水量の増加や上流での砂漠化などにより水量が減り汚染され、埋め立てられてしまったのだ。

 そこに、2008年の北京五輪に向けた再開発が転機となり、埋め立てられた河川の再現が始まった。例えば、市内の第2環状道路は、元々北京の城壁を壊してその跡地に建設したものだが、その外側にあったお堀が近年、一部再整備された。また、西直門橋の遺跡や水路の水面もお目見えするなど、北京の各所で数十年間忘れられていた水辺が魔法のように息を吹き返している。

 そして、驚くべきは再現された水路で水が潤っていることだ。2014年末に完成した巨大引水プロジェクトの「南水北調」の影響らしい。遥かな長江流域から毎年10億m2以上の水が北京に送られ、1999年以降劇的に低下していた北京の地下水位は、2016年に増加に転じ、今では市の水道水の7割強を賄うほどになったという。

「水の都」を念頭に、もう一度北京の地図を眺めてみると、確かに三元橋や亮馬橋、北新橋、白石橋、六里橋など地名には橋がいっぱいある。また、紫竹院、団結湖、玉淵潭の八一湖など池や湖も豊富だ。

 周りに聞いてみれば、80年代位までは北京の川や湖も澄んでいて身近な存在だったという。「夏は、仕事帰りに永定河に泳ぎに行き、洗面器に半分くらいタニシを取ったよ。水は澄んで自分の足が透けて見えた」と80過ぎのお婆さんは語る。またその頃、あちこちの川や池で2キロもある大きな鯉や草魚、鮒を釣って歩いたという友人もいる。

 また「海」もある。北京は渤海に面する天津港から100km以上西に位置し、関東で例えるなら東京湾から100km以上西の前橋市のような内陸都市だ。にもかかわらず北京の中心には「海」が集中している。

 敷地内の中海と南海の2つの池の名前を合わせた「中南海」は誰もが知るトップの政務場所だし、その北側は家族連れでにぎわう「北海」公園。更に北側のオシャレスポットは「前海」「後海」「西海」から構成される「什刹海」だ。 

 実はこれらは人口湖なのだが、草原の騎馬民族出身の元王朝は水への憧れから「海」と命名。杭州と北京郊外を結んでいた京杭大運河を北京中心部の「什刹海」まで貫通させ、今の北京の原型となった大都を造営したのだが、それ以降、北京には「海」ができた。

 激動の歴史の中で内陸の北京に「海」が造られ、河川が姿を消し、また、再現が進んでいる。風と乾燥の街は長江の水が流れる水の都へと体内から変身しつつある。巨大な力によって水を形づくってきた北京。この街の大胆な変身は今日も続いている。

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乾燥した北京にも水ゆかりの地は実は多い。暗渠化されていた河川が再現整備されつつある。整備された西直門の水路(上)と元朝に整備された北京の「海」の什刹海(下)。


※本稿は『月刊中国ニュース』2020年6月号(Vol.100)より転載したものである。