田中修の中国経済分析
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【19-04】ボアオフォーラムにおける李克強総理の演説

2019年7月10日

田中修

田中 修(たなか おさむ)氏 :奈良県立大学特任教授
ジェトロ・アジア経済研究所 上席主任調査研究員

略歴

 1958年東京に生まれる。1982年東京大学法学部卒業、大蔵省入省。1996年から2000年まで在中国日本国大使館経済部に1等書記官・参事官として勤務。帰国後、財務省主計局主計官、信 州大学経済学部教授、内閣府参事官、財務総合政策研究所副所長、税務大学校長を歴任。現在、財務総合政策研究所特別研究官(中国研究交流顧問)。2009年10月~東京大学EMP講師。2 018年4月~奈良県立大学特任教授。2018年12月~ジェトロ・アジア経済研究所上席主任調査研究員。学術博士(東京大学)

主な著書

  • 「日本人と資本主義の精神」(ちくま新書)
  • 「スミス、ケインズからピケティまで 世界を読み解く経済思想の授業」(日本実業出版社)
  • 「2011~2015年の中国経済―第12次5ヵ年計画を読む―」(蒼蒼社)
  • 「検証 現代中国の経済政策決定-近づく改革開放路線の臨界点-」
    (日本経済新聞出版社、2008年アジア・太平洋賞特別賞受賞)
  • 「中国第10次5ヵ年計画-中国経済をどう読むか?-」(蒼蒼社)
  • 『2020年に挑む中国-超大国のゆくえ―』(共著、文眞堂)
  • 「中国経済はどう変わったか」(共著、国際書院)
  • 「中国ビジネスを理解する」(共著、中央経済社)
  • 「中国資本市場の現状と課題」(共著、財経詳報社)
  • 「中国は、いま」(共著、岩波新書)
  • 「国際金融危機後の中国経済」(共著、勁草書房)
  • 「中国経済のマクロ分析」(共著、日本経済新聞出版社)
  • 「中国の経済構造改革」(共著、日本経済新聞出版社)

はじめに

 李克強総理は6月28日、ボアオフォーラム開幕式で演説を行った。本稿では、このうち中国経済について述べた部分を紹介・解説する。

(1)経済情勢認識

 「2019年に入り、中国経済の安定した運営にいくらかの積極的変化が現れ、市場の予想が改善をみた。ここ2ヵ月のデータを見ると、雇用・物価・国際収支等の主要経済指標は比較的平穏であり、固定資産投資は着実に反転上昇しており、消費者信頼指数・製造業新期受注指数は顕著に高まっており、資本市場の取引は活発になっている。とりわけ3月は、1日平均発電量の伸びが2桁に達し、輸出入・貨物輸送の伸びが加速した」と、現在の経済の状況を肯定的に評価している。

 しかし、現実の数値を見ると、工業生産の伸びは、3月8.5%→4月5.4%→5月5.0%と減速している。消費は、3月8.7%→4月7.2%→5月8.6%と、5月はやや持ち直したが、固定資産投資は、1-3月6.3%→1-4月6.1%→1-5月5.6%と鈍化している。

 輸出は、3月13.8%→4月-2.7%→5月1.1%、輸入は、3月-7.8%→4月4.0%→5月-8.5%と、米中経済摩擦の影響を受けて不安定な動きとなっている。

 このため、4-6月期の成長率は、1-3月期よりも減速するとの見方が強い。

(2)経済安定の原因

 「現在中国経済の安定した態勢は、我々がこれまで実施した預金準備率引下げ・減税等の政策措置と、最近打ち出したマクロ政策のシグナル効果が顕在化し、市場主体の活躍度が安定の中で上昇していることを示している」と個人所得税・増値税の減税と、社会保険料引下げなど、負担軽減策の効果を強調している。

 金融政策の面で注目されるのは、2019年2月末のM2は前年同月比8%増であり、社会資金調達規模残高は10.1%増、大体この2年間の実質水準に相当するとして、「我々は量的緩和を行っていない」と金融緩和を否定していることである。現在、住宅価格は未だ高止まり状態であり、市場に誤ったシグナルを送り、住宅投機を再燃させることを警戒しているのであろう。

このため、「中国政府の予算内投資が全社会投資に占めるウエイトは6%前後に過ぎず、内需の伸びは億を上回る市場主体に依拠しており、その中でも、7000万の工商事業者の投資・起業・発展と14億近い人口の消費需要・市場潜在力である」として、民営企業と個人消費の役割に期待をかけている。

(3)当面のマクロ経済政策

 「我々は、マクロ政策の方向性を変えないことを堅持し、経済の平穏な運営のために条件を創造する」としながらも、「2019年は不安定・不確定要因が顕著に増大しており、外部からの輸入性リスクが上昇しており、困難・試練は低評価できず、経済成長は毎月あるいは毎四半期に一定幅の変動が出現することを排除できない」と、四半期の成長率が変動する可能性を示唆している。

このため、「年間の経済運営が総体として合理的区間を維持しさえすれば、我々は戦略的不動心を維持し、同時に情勢の変化に応じて、遅滞なく事前調整・微調整を行わなければならない」と、一時の成長率の低下に動揺せず、しっかりとした政策対応を行うことを求めている。

 他方で「当然、もし経済運営に予想を超えた変化が出現した場合には、より有力な対応措置を採用する」としながら、「我々は『バラマキ』式の強い刺激政策は実施せず、大風呂敷を広げる粗放な成長という旧い道を歩まず、短期の成長を維持するために長期の発展に損害を与えるような方法を採用しない」と、リーマンショック時のような大規模な景気刺激策の発動を強く否定する。これは、地方政府や国有企業の債務リスクの増大につながりかねないからである。

 そして、「我々は、断固としてサプライサイド構造改革を主線とし、改革・開放・イノベーションに依拠し、市場主体の活力を奮い立たせ、内生的発展動力を増強し、下振れ圧力に耐え抜いて、経済運営を合理的区間に維持する」と安定成長維持への決意を示し、世界に対しては、「中国経済を観察し、政策方向を判断するには、時間軸を引き延ばして見なければならず、年間・全体・趨勢を重点に見なければならない」と、短期の変動のみで中国経済を判断しないよう、呼びかけている。

(4)財政規律との関係

 「我々は、政策実施を強化し、約束した更に大規模な減税・費用引下げ等の措置を必ず実現する。減税・費用引下げは公平に恩恵が及び、直接有効な改革措置であり、2019年に市場主体を奮い立たせ、経済下振れ圧力に対抗する重要措置である」と、財政政策の効果を強調する。

しかし他方で、「2019年の減税・社会保険料引下げ措置は、企業の負担を2兆元近く軽減できる。これは、企業にとって重大なメリットであるが、政府にとっては重大なプレッシャーとなる」と、収入減少による財政リスクの増大の危険を認めている。

 このため、「我々は各政府に、厳しく倹約し、執行は質素を守り、うわべを飾り立てることを強く戒め、一般支出を大幅に圧縮し、遊休資産・資金を活性化し、増加した収入と圧縮した支出は主として減税・費用引下げ支援に用いることにより、これをもって企業収益の向上と市場活力の増強に置き換え、収入を増やし支出を抑え、企業に恩恵を与え国民を豊かにする道を歩むよう、要求している」と、財政支出の徹底見直しにより財政規律の維持に努める姿勢を示している。

(5)ビジネス環境の整備

 「ビジネス環境はすなわち生産力であり、競争力である。我々は引き続きビジネス環境の最適化という先手を打ち、市場参入のネガティブリストを短縮できるものは全て短縮し、審査・許認可事項で削減できるものは全て削減する」と規制緩和を継続する姿勢を示している。 

また、外国からの要望を意識して、「競争中立性の原則を実施し、公正な監督管理を強化し、各種市場主体の公平な競争を促進する」と、改めて競走中立性の維持と公正な監督管理を強調している。

民営企業・中小零細企業支援の観点からは、「資金調達難・資金調達コスト高の問題緩和に力を入れ、資金調達状況を顕著に改善し、資金調達コストを顕著に引き下げなければならない」とする。

(6)イノベーション

 「我々は、イノベーション生態を最適化し、科学技術の支えとしての能力を強化し、伝統産業の改造・グレードアップと新興産業の発展を促進し、イノベーション・起業のためにより大きな舞台を建設することにより、起業・イノベーションを不断に深め、新たな動力エネルギーの壮大な発展のための助力に努めなければならない」と、かねてからの主張である「大衆による起業・万人によるイノベーション」を再度強調している。

李克強総理の特徴は、政府主導による「上からのイノベーション」より、大衆による「下からのイノベーション」を重視することにある。

(7)民生の保障・改善

 「我々は、民生の痛み・隘路をしっかり把握し、民生の難題を解決し、社会のパワーを誘導してサービス業とりわけコミュニティ・サービス業を発展させ、消費の潜在力を奮い立たせ、人民の生活水準を高め、経済発展と民生改善の良性の循環を形成しなければならない」とする。

 10月に、中国は建国70周年を迎えるため、今年は社会の安定が重視される。このためには、民生の保障・改善が特に重要な政策の柱とされるのである。