【12-01】蔵書楼と文庫
朱 新林(浙江大学哲学科 アシスタント研究員) 2012年 1月30日
書籍が誕生して以来、人類は知識を広め、共有するために意識的に典籍を収集、保存し始めるようになった。人々の関心は多岐にわたるため、保管される典籍の種類も増え、多様化した。中国は世界一蔵書の数が豊富な国の一つであり、数千年にわたって続く蔵書文化は中国が高く重視する伝統文化である。中国と日本は地理的に近く、文化にもつながりがあり、両国は典籍を保存するためにそれぞれ蔵書機関を打ち立てた。古代中国では、これらの機関の多くが蔵書楼または蔵書閣と呼ばれ、日本でも蔵書楼または蔵書閣と呼ばれた。しかし、日本では近現代化が進むにつれ、より現代的な蔵書楼、すなわち文庫が誕生した。蔵書楼と文庫は関係があるものの、全く同じものではない。本文章では、中国・日本の歴史上のいくつかの蔵書楼と文庫について紹介し、これらの関係と文化の源をたどってみたい。
一、中国古代の蔵書楼
天一閣
中国の蔵書の歴史は長い。春秋時代にはすでに典籍の種類が豊富で、個人蔵書もある程度の規模を有していた。中国の蔵書事業、各種の蔵書楼はこの頃から今にいたるまで、数え切れないほどの年月と時代の変化を経ながらも、絶えることなく存続しつづけ、力強い生命力で数千年の歴史を刻んできた。中国最古の蔵書建築は宮廷に見られる。先秦時代(秦以前の時代)には、商王室蔵書、周王室蔵書、諸侯蔵書、最古の個人蔵書などが存在していた。
両漢時代、蔵書事業は大きく発展した。漢の高祖時代には石渠閣、麒麟閣、天禄閣などの国家蔵書機関が誕生し、前漢の蔵書の基礎が築かれた。400年あまり続いた漢王朝の間、「建蔵書之策」により、蔵書構築を後押しする一連の措置が積極的に講じられた。主なものとしては宮廷蔵書楼が建設され、政府専用の蔵書建築の先駆けとなったほか、珍しい書籍の探求、書籍の収集が積極的に行われ、書物献上が頻繁に実施され、蔵書管理が重視された。
魏晋南北朝時代は戦乱が絶えず、社会文化建設に極めて大きな損失がもたらされた。しかし、各王朝の統治者はいずれも熱心に書籍を収集しており、梁武帝は「文徳殿」と「華林園」を開いて書籍を保存した。この時代、個人蔵書は蔵書家の数、蔵書の数、質などの面で大きく発展した。隋・唐・五代の時代には科挙制度が確立され、蔵書事業の発展が促進された。雕版印刷技術の発明と使用は、蔵書事業の振興に向け、技術的保障を提供した。唐の時代には、蔵書の数が1万巻に達する蔵書家の数がこれまでの時代の総和を上回った。五代十国時代には蔵書楼の建設が普及し、専門的な名称も現れた。北部では契丹の王子・耶律倍の「望海堂」、南部では呉越・暨斉物の「垂象楼」といった具合だ。仏道寺院の蔵書数も豊富で、書院蔵書も登場し始めた。
蔵書事業が最も発達したのは宋の時代だ。宋代中央政府の最も主要な蔵書楼は、集賢院、史館、昭文館の「三館」であり、これらの蔵書数は8万巻に上った。両宋の個人蔵書は中国の蔵書史上、最も輝かしい時代を築いている。蔵書家の数、分布の幅広さ、蔵書数などはいずれも宋代以前の総和を上回り、個人蔵書の楼閣が建設され、図書目録が作成され、蔵書印の使用が始まり、副本が備えられ、保存・保護が強化され、秩序化・標準化が進んだ。蔵書の印刷、校勘、利用などの面でも、かつて無いほどの業績をあげた。明の時代に社会が安定し、経済がますます栄えたことは、明代蔵書事業の発展に向けてしっかりした基礎を築いた。役所、個人、寺院、書院蔵書の規模は前の時代を大幅に上回った。特に個人蔵書家の数は空前の規模となり、蔵書楼が各地に多数建設された。明代の蔵書楼のうち、現存するものは数少ないが、極めて高い代表性を持つ。中でも最も代表的なものは天一閣だ。浙江省寧波に位置する天一閣は、明代嘉靖40年(1561)に建造された中国に現存する最古の蔵書楼だ。幅六間の2階建て建物で、2階には書棚が経書・史書・諸子・詩文集に分類されて並んでおり、1階は書籍閲覧と石刻収蔵のために使われていた。建物の南北に窓があり、風通しが良い。書棚の前後両側に戸がついており、前後から書籍を取り出すことができるだけでなく、風通しを保ち、カビを防ぐ構造になっている。天一閣という名前は漢代・鄭玄「易経注」中の「天一生水」に由来する。火は蔵書楼にとって最大の脅威となるが、水は火を相克することから、これにちなんで「天一閣」の名がついたという。建築様式は硬山頂・重楼式で幅・奥行きともに六間ずつあり、前後は回廊でつながっている。建物の前には「天一池」という池があり、防火のために水が蓄えられている。天一閣は建設以来、「代不分書,書不出閣(世代が変わっても本を分けず、本の帯出を禁止する)」と規定されており、範氏後代の継承者たちは創設者・範欽の遺志を継いで管理を厳格化した。扉と書棚の戸の鍵は部屋ごとに管理され、各部屋の鍵がそろわないと鍵を開けることが許されないほか、子孫も理由なしに入室してはならず、親戚・友人を連れて入ることはもってのほかとされた。
清代前期、清朝政府は知識分子を思想的に朝廷に従わせるため、科挙による人材登用、程朱理学の提唱、大量の文化人による朝廷のための書物編纂など、彼らに迎合するための多くの措置を講じた。これらの措置は清代文化の発展に向け、良いムードを作り上げた。知識分子は書物編纂に励み、官刻・私刻・坊刻(刻書)は大いに発達し、珍本秘籍が幅広く収集され、蔵書事業はかつてないほどに栄え、中国古代の蔵書事業はピークに達した。皇家の書庫だけでも内閣大庫、国史館、皇史宬、英武殿、方略館、会典館、昭仁殿、五経萃室、藻堂などが存在したほか、「四庫七閣(四庫全書を収めた七つの書庫)」も建設された。「四庫全書」は冊数が膨大で、出版・刊行されたことはなく、手書きの副本が七部存在するのみであった。これらの副本はそれぞれ北京紫禁城内にあった文淵閣、北京郊外の円明園にあった文源閣、奉天故宮(現在の瀋陽)にあった文溯閣、承徳の避暑山荘内にあった文津閣に収められた。さらに、鎮江に文宗閣を、揚州に文匯閣を、杭州に文瀾閣を建設した。これらの四庫七閣と書籍のうち、一部は近代の戦乱などで焼失し、今も残るのは文淵閣、文津閣、文溯閣、文瀾閣の四閣のみとなっている。このほか、有名な個人の蔵書楼(銭謙益の絳雲楼、銭曽の述古堂、杭州丁氏兄弟(丁申・丁丙)の八千巻楼、朱学勤の結一瀘、紹興・邵承燦の澹生堂、盛宣懐の愚斎、周越然の官言斎など)の多くは江蘇省・浙江省に集中している。
アヘン戦争以降、内憂外患により封建王朝が不安定な状態となり、国と個人の蔵書楼はいずれも深刻な損害を受けた。西洋文化の影響で蔵書事業も大きく変化し、蔵書楼は図書館へと移り変わり始めた。この時期、伝統的な蔵書事業の中で最も重要かつ代表的なものは、浙江省陸心源の「皕宋楼」、浙江省丁氏の「八千巻楼」、山東省楊氏父子の「海源閣」、江蘇省瞿氏の「鉄琴銅剣楼」であり、これらは「清末四大蔵書楼」と呼ばれる。小川を隔てて劉氏の小蓮庄(庭園)に隣接する嘉業堂藏書楼は、劉鏞の孫・劉承干が1920年に建設したもので、清朝皇帝・溥儀が書いた金横額「欽若嘉業」を賜ったことで有名である。山東省聊城市・光岳楼南万寿観街北の楊氏屋敷内に位置する海源閣は、中国で最も有名な個人蔵書楼の1つであり、4世代にわたって守られてきた。蔵書は計4千種、22万巻あまりで、うち、宋・元代の珍本は1万巻を超える。
嘉業堂蔵書楼/海源閣
長い年月が経つに従い、現存する当時の蔵書楼は減り、今も中国に残るのはわずか100カ所あまりとなった。南開大学の来新夏教授によれば、このような状況をもたらした主な原因は以下の3つである。(1)古籍の一部が戦乱の中で遺失又は焼失したため。(2)伝統的な蔵書楼はいずれも個人宅であり、蔵書楼主人の子孫が研究をしなくなった場合、又は家族の没落をきっかけとして、古籍が売却又は寄贈されたため。(3)一部の地方で蔵書楼の保管設備や研究者が不足しており、国が保護目的で蔵書楼の貴重な古籍を図書館に移したため。
中国古代の蔵書楼は多くの文献・典籍を収集・保存したばかりでなく、奥深い中国文化を整理し、伝え広めることで、中華古代文明の重要な媒体となった。蔵書楼とその歴史からは、悠久の歴史を持つ中華民族の文化性と文化精神を見て取ることができる。清朝末期に葉昌熾「蔵書紀事詩」が登場して以降、中国の蔵書史文化研究は専門化・系統化の時代に突入した。倫明の「辛亥以来蔵書紀事詩」、楊立誠・金歩瀛の「中国蔵書家考略」、陳登原の「古今典籍聚散考」、李希泌・張椒華夫妻の「中国古代蔵書与近代図書館史料(春秋至五四前後)」、「中国蔵書通史」、「中国蔵書楼」、「中国古代蔵書楼研究」などの書籍が世に出たことは、中国の蔵書史・蔵書文化の研究が現在、広大な余地のある発展の段階に入りつつあることを示しており、喜ばしいことと言える。
二、日本の蔵書楼と文庫
唐、宋、元、明代の漢籍(漢文で書かれた中国の書籍)が日本に伝わった後、日本では室町時代から徐々に独自の蔵書機関が建設された。代表的なものは足利学校の図書館と金沢文庫である。足利学校は832年に創建されたとされる日本最古の学校であり、図書館は1333年に設立されたとされる。上杉憲実(1411-1466年)が十五世紀前半に関東管領となった後、1439年に鎌倉円覚寺の僧快元を庠主(校長)として招いたり、蔵書を寄贈したりして学校を再興し、その蔵書数はピークに達した。全盛時代、日本各地から集まった生徒の数は約三千人に上ったが、明治維新後に徐々に衰退し、その蔵書もまた散逸した。金沢文庫は北条氏の文庫であった。北条実時が鎌倉から六浦庄に移り住んだ後の1275年、収集した和漢の書を保管する書庫を称名寺内に創設したのが「金沢文庫」の起源とされる。北条氏の滅亡後は、称名寺が管理を引き継いだが、その後金沢文庫の蔵書は徐々に散逸し、1602年、蔵書の一部が江戸の紅葉山文庫と静岡の駿河文庫に移された。称名寺は荒廃したが、1681年に再建された。その後、1930年に神奈川県立金沢文庫として復興、1955年に博物館施設として改装された後、1990年には新築された。清朝の駐日公使であった黎庶昌はかつて、足利学校の書籍の管理・規律の厳格さや、古籍を忠実に守っている点を高く評価し、「中国は乾隆帝の時代に揚鎮、浙江などに三閣を設立し、四庫書籍を収めた。閲覧と写本の作成は許されたが、書籍の帯出は禁じられ、規律が守られていた。これと同様個人蔵書も多かったが、中でも範氏の天一閣は最も有名で、数百年の歴史を持ち、今に至るまで他に代わるもののない存在だ。日本の足利学校も中国と同じく規律が厳しく守られている。変法以来、周公や孔子の学問は日に日に廃れたが、足利に古くから保存されている書籍だけは失われず残っており、まさに一髪の千鈞を引くが如しであった」と語ったという。
東洋文庫新館外観(引用)
徳川幕府の時代の代表的な蔵書機関は紅葉山文庫、昌平坂学問所(昌平黌)、江戸医学所であり、その後現在の内閣文庫へと発展し、正式に日本国立公文書館の所属となった。中でも紅葉山文庫は最も有名であり、果たした役割も大きい。16世紀末、関白豊臣秀吉の養子・豊臣秀次が豊臣軍と共に関東を征服した際、足利学校の蔵書を京都へ持ち去ったほか、さらに金沢文庫にあった宋元版を含む全ての蔵書、称名寺の宋版経、鎌倉古寺院の大量の墨宝などを京都へ持ち去ったということがあった。しかしこの後、徳川家康が足利学校の蔵書と金沢文庫を関東の元の住所に戻し、残りの書籍を紅葉山文庫に保管した。徳川家康自身も、「孔子家語」、「六韜」、「三略」、「貞観政要」、「周易」、「武経七書」、「群書治要」など多くの漢文古籍を翻刻している。江戸時代全体を通じて、紅葉山文庫は国家図書館としての役割を果たし、中国から運ばれた書籍を率先して取得したほか、諸藩も価値がある書籍を紅葉山文庫に献上した。九州大分佐伯藩主・毛利高標(1755--1801)は、その蔵書のうち逸品2万冊あまりを献上した。昌平坂学問所の蔵書は林羅山を初めとする林家の蔵書に起源を発する。寛政九年(1797)、林述斎の時代に林家の私塾が官学に改組されて以来、その蔵書は官学の図書館となった。明治維新後、この文庫は内閣文庫と改称された。日本は1971年に国立公文書館を設立し、内閣文庫はその所属部門の1つとなった。
明治維新後、日本の蔵書楼と文庫は徐々に現代の図書館へと変化を遂げ、対外向けのサービス機能が高まった。東洋文庫は中国と中国文化を主な研究対象とする図書館兼研究所であり、日本三大漢学研究所の1つで、1948年より日本国立国会図書館の支部とされた。文庫に収蔵されている中国の珍籍には、中国の地方誌・叢書約4000部、中国方言辞典500冊あまり、中国の家系図、清代の満蒙文書籍、中国探検隊報告所、中国考古学資料、「順天時報」、「華北正報」、各種の大蔵経とその他の西蔵文献3100件などがある。東洋文庫の蔵書のうち、5種類の漢籍が「日本国宝」とされている。うち、「春秋経伝集解」、「史記」(夏本紀、秦本紀)、「文選集注」の3種類は全て平安時代(794--1185年)の写本で、中国の晚唐-五代時期のものに相当し、極めて貴重である。残る2種類は「毛詩」残巻と「古文尚書」残巻で、いずれも日本に伝わった中国唐代の写本である(「毛詩」残巻は1952年3月に「日本国宝」に指定)。その後、1961年にはユネスコの要請によってユネスコ東アジア文化研究センターが付置された。これは、東洋文庫と日本のその他の文庫の最大の違いであり、東洋文庫がその後の日本の学界で名声を博する重要な原因のひとつとなった。
静嘉堂文庫(引用)
静嘉堂文庫は岩崎弥太郎の弟・岩崎弥之助が創建した。岩崎弥之助は明治二十五年(1892)ごろから中日の古典籍を収集し始めた。中国清代末の蔵書家・陸心源が亡くなった後、その子・陸樹藩が蔵書を保護しなかったため、蔵書は徐々に散逸した。さらに陸家は没落し、巨額の借金を抱えていた。これを知った日本の学者・島田斡の後押しにより、三菱財閥は1907年4月に10万元で陸樹藩が所有していた陸心源の蔵書全てを購入。中国の史部・集部古典籍を増やし、これが静嘉堂文庫の基本蔵書となった。陸氏の蔵書購入前、静嘉堂文庫の蔵書数は3万巻あまりだったが、陸心源の皕宋楼にあった宋・元代の旧蔵書220種あまりを購入したことで一躍知名度を上げ、世に名高い大蔵書楼となった。静嘉堂の所蔵図書は約20万冊(うち漢籍12万、日本古典籍8万)で、このほかに中国、日本の古代美術品6000点あまりを所蔵する。うち、国宝に指定されているものには、与中峰明本尺牘(趙子昴筆)などがあり、「重要文化財」に指定されているものには、宋版「周礼」残本(蜀大字本)2冊、宋版「説文解字」8冊、宋版「漢書」(湖北提拳茶塩司刊本)40冊、宋版「唐書」90冊、宋版「李太白文集」12冊などがある。
このほか、尊経閣文庫も静嘉堂文庫と同じく、漢籍の収蔵で有名な日本の個人図書館である。かつては加賀藩主前田家に属していた(前田家は16世紀中ごろに加賀藩主となった)。5代藩主前田綱紀(1643-1724)は図書の収集、文献の収集を高く重視し、中国と日本の古本、写本、珍本典籍の網羅に力を尽くした。尊経閣文庫の蔵書は豊富で、日本の書籍は2万種あまり、漢籍は1.7万種、その他文献は5600種に上り、多くは絶版および極めて貴重な書籍となっている。漢籍は明代のものが多く、宋・元代の善本も多い。
以上をまとめると、中国の蔵書楼文化が唐代以降に日本に伝わった後、日本では影響力のある蔵書楼と文庫が誕生した。このことは中日文化交流の推進に向け、不可欠な貢献を果たした。両国は典籍の保存、文化の伝播という蔵書の理念を受け継ぎ、世界に東方文化を広める上で欠かせない役割を果たしている。
朱新林(ZHU Xinlin):浙江大学哲学系 助理研究員
中国山東省聊城市生まれ
2003.9~2006.6 山東大学文史哲研究院 修士
2007.9~2010.9 浙江大学古籍研究所 博士
(2009.9~2010.9) 早稲田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11~現在 浙江大学哲学系 アシスタント研究員