【20-10】香港金融市場の国際競争力と日本
2020年10月29日
露口 洋介(つゆぐち ようすけ):帝京大学経済学部 教授
略歴
1980年東京大学法学部卒業、日本銀行入行。在中国大使館経済部書記官、日本銀行香港事務所次長、日本銀行初代北京事務所長などを経て、2011年日本銀行退職。信金中央金庫、日本大学を経て2018年4月より現職。著書に『中国経済のマクロ分析』(共著)、『東アジア地域協力の共同設計』(共著)、『中国資本市場の現状と課題』(共著)、『中国対外経済政策のリアリティー』(共著)など。
このところ、香港から高度金融人材を日本に誘致し、日本の金融市場を国際金融センターとして発展させようという動きが盛り上がっている。そこで本稿では、香港金融市場がどのような市場であるかを確認しておきたい。
香港政府は長年香港金融市場の国際競争力向上を図ってきた
7月に公表された政府の2020年の骨太の方針では、国際金融都市の確立を目指すとされ、菅総理も今年10月の記者会見で、国際金融都市構想の実現を目指すため海外人材誘致の方針を打ち出した。その背景として、中国政府の本年6月末の国家安全維持法の施行などによって香港の国際金融センターとしての地位が揺らいでいることが挙げられる。日本としては、この機会を逃さないよう努力し、国際金融センターとしての地位を発展させるべきであろう。しかし、香港金融市場と競争することは、容易なことではない。
香港にとって金融・保険業はGDPの2割近くを占める重要産業である。1984年の中英交渉で香港は1997年に中国に返還されることが決定した。その際の、中英共同宣言では「香港特別行政区は国際金融センターとしての地位を維持する」と述べられており、1990年に制定された香港基本法においても同様の規定が存在する。
その後、1993年に香港政庁の外為基金管理局と銀行監督部門を統合する形で香港金融管理局(Hong Kong Monetary Authority:HKMA)が設立された。1993年のHKMA年報を見るとその設立の理由として、1997年を超えて香港の金融システムが香港の人々とインターナショナルファイナンシャルコミュニティの信頼を維持するようにすることが挙げられている。
HKMAの目的についての年報の記載の移り変わりを見ると、当初、①通貨価値の安定、②銀行システムの安定、③支払い決済システムを中心とする金融システムの強化の3つが挙げられていたが、2007年に「為替ファンドの運営」が①から分離して4点となり、③が金融インフラの発展という表現になった。
年報の内容面では、1996年報から「国際金融センター」という章が設けられて、現在に至っており、1996年報では「HKMAは1997年を超えて国際金融センターとしての香港を促進するために大きな努力を行ってきた」と述べられている。
2009年の年報では、上記③の「金融インフラの発展」が「金融インフラの維持と発展を含めた香港の国際金融センターとしての地位を維持すること」という表現に変更された。現在のHKMAのウェブサイトを見ると、以上の4点が目的として記載されている。
なお、このHKMAの4つの目的は、法的には2003年6月の香港特別行政区政府財政長官からHKMA宛てのレターが根拠となっている。
以上のように、実質的には香港金融市場の国際競争力を維持・向上させることが、1993年の設立当初からHKMAの目的の一つであったといってよい。また、国際競争力向上の方策としては、検査監督を通した金融市場の透明性と公正さの向上など様々な分野の方策が実施されてきたが、その中でも決済システムを中心とした金融インフラの整備が主要なものと位置付けられてきた。
HKMAの具体的な施策
HKMAは、1996年に日本に先駆けて香港ドルの決済システムにRTGS(即時グロス決済)を導入し、その後、香港内に米ドル(2000年)、ユーロ(2003年)、人民元(2006年)のRTGS決済システムを構築した。香港の米ドルのRTGSシステムは、マレーシア(2006年11月)、インドネシア(2010年1月)、タイ(2013年7月)のそれぞれの通貨の決済システムとリンクされ、米ドルとそれぞれの通貨の間でPVP(外国為替取引の双方通貨の同時決済)を行っている。また、香港の債券決済システムであるCMUはこれらの外貨RTGSシステムと接続しDVP(証券と資金の同時決済)を行っている。また、CMUはオーストラリア(1994年)、韓国(1997年)、中国(2004年)、台湾(2012年)の債券決済システムとリンクされ、CMUに預託された債券はこれらの国・地域からも投資が可能となっている。
PVPやDVPは、一方が支払いや引き渡しを実行したのに相手方がこれに対応する支払いや引き渡しを実行せず取りはぐれるリスクを回避するシステムである。世界には、主要通貨の間のPVPを実現するCLS銀行や、各通貨建て証券と当該通貨の間のDVPを実現するユーロクリアやクリアストリームといった機関が存在する。香港は、市場全体としてこれらの機能のアジア版を目指し、アジアの金融ハブとなるべく、20年以上にわたって努力を積み重ねてきた。
また、最近では、競争力強化のためには人材が重要であるとして2019年6月に、Hong Kong Academy of Financeが設立され、金融機関の幹部や学者、監督機関などから参加者が集まって議論や研究を行っている。
シンガポールも競争力強化に努めている
香港金融市場の競争相手であるシンガポールでは、シンガポールの金融当局であるMAS(Monetary Authority of Singapore)の目的と機能について、法律(Monetary Authority of Singapore Act)で定められている。
MASの目的としては、①持続的成長に資する物価の安定、②金融システムの安定促進、③外貨準備の適切な運用、④国際的に競争力のある市場の育成の4点が挙げられている。そしてMASの機能の一つとして、「シンガポールを国際金融センターとして発展させること」が定められている。
このような法律の規定を受けて、MASは、金融センター発展のための部署を設け、アジアのウェルスマネージメントセンターやファンドマネジメントセンターを目指す政策措置を打ち出すなどの努力を行っている。
国際競争力の向上には永続的な努力が必要
以上のように、香港とシンガポールでは、それぞれの通貨当局の組織の目的として国際金融センターとしての競争力向上が明示的に定められている。それに従って、通貨当局は、恒常的・継続的にそれぞれの金融市場の国際競争力を高めるための努力を積み上げてきた。
日本では、金融市場の国際競争力向上を目的として定められた組織は存在しない。世界でもこのような目的が法律上明記されている組織は少ないのではないだろうか。香港とシンガポールは、当局が金融市場の国際競争力向上を常に追求することを義務付けられた特別な金融市場であるといえよう。
香港市場の動揺を受けて香港からの人材のシフト先としてはシンガポールが有望な先として挙げられる。一方、香港も手をこまねいているわけではなく、国際金融市場としての地位を維持するために懸命の努力を行っている。日本が、香港などから高度金融人材の誘致を図り、国際金融センターとしての発展を実現するには、まずは香港市場とシンガポール市場との競争に打ち勝たなければならない。そのためには、香港金融市場の動揺という現象への一時的な対応ではなく、日本の金融市場の国際競争力向上を義務とする組織を制度として定めて、永続的な対応を行うことが望ましい。そして、国際競争力向上の具体的な方策としても、税制上の優遇策や行政文書の英語化など、ビジネス環境を香港やシンガポールに近づける努力にとどまらず、より積極的に日本市場ならではのビジネスを提案し、それを実現するような制度やインフラを整備していくことが求められよう。
(了)