【09-007】刺客の評価
寺岡 伸章(中国総合研究センター フェロー) 2009年4月14日
風萧萧(しょうしょう)として易水(えきすい)寒し
壮士 ひとたび去って復た還らず
戦国時代、荆轲(けいか)は今の北京近辺にあった燕(えん)の国境の易水でこの歌をうたった。易水の歌である。彼の任務は秦王(のちの始皇帝)の暗殺、刺客である。成功しても、失敗しても生きて還ることはない。壮士は荆轲自身である。太子丹と彼の知人は白装束で彼を易水のほとりで見送った。男たちは皆泣いていた。荆轲は馬に乗ると、一度も振り返ることなく去って行った。紀元前227年のことである。
当時、七国のなかで秦は天下統一に向けて次々と諸国を滅ぼしていた。紀元前230年に韓を、228年に趙を滅した。燕、魏、楚、斉は秦の侵攻に戦々恐々としていた。追い詰められた諸国は刺客を派遣し、秦王を殺害しようとした。実際、暗殺計画は3回あったと史書は記録している。
荆轲はどんな人物だったのであろうか。司馬遷の『史記』刺客列伝にはこのように記されている。
「荆轲は酒飲みの連中とつきあってはいたが、しかしその人柄は沈着で、読書を好んだ。かれの歴訪した諸国では、どこでもかれはその地の賢人・豪傑・長者(人望ある人)たちと交わりを結んだ。燕におもむくと、燕の処士の田光先生がまたかれをてあつく遇したが、それは荆轲が凡俗な人間でないことを理解していたからである」
当時、剣術と読書の両方を兼ねる者は少なかった。荆轲は交際範囲も広かったようである。そしてなにより、刺客には相手に気づかれない沈着さが必要条件であった。
燕の太子丹は幼いころ、のちに秦王となる政とともに趙で人質になっていた。同じ境遇にあるためか、この二人は仲がよかった。政が秦に帰国し、秦王となってから、燕の太子丹は秦に人質となって行ったが、彼に対する秦王の待遇は悪く、それで丹は怨んで、燕に逃げて帰って来た。紀元前232年である。荆轲が秦王暗殺に送り出される5年前のことである。
燕の太子丹は秦王を竹馬の友と思っていたため、秦王の思わぬ冷たい扱いに裏切られたと感じたのであろう。秦王は天下統一という大事業を完成させようと策略を巡らしていたのだが、太子丹は燕と秦の両国関係を友人のそれになぞらえていたのである。人生の目的や夢が異なる二人が意思疎通できるはずがない。さらに言うと、辛酸をなめた秦王は人に対して執念深くなっていたのである。天下統一はどんなことがあっても果たさなければならないと信じていたのである。そんな彼が野望を抱かぬ太子丹を軽く見ていたのは当然であった。
一方、太子丹は秦王の悪い待遇に対して報復しようと考えていた。刺客を探していたのだ。本来であれば、丹は超大国秦の勢いを止めなければ、祖国が滅ぶと発想すべきであった。しかし、『史記』には悪い待遇に対する報復のために刺客を送ったと記録されている。燕の君臣には秦の勢いには歯が立たないとして、和平派や妥協派が多かったが、太子丹は主戦派の筆頭であった。秦王に対する個人的な怨みがその原因であった。丹は暗君といわないまでも、やはり感情の次元で政治を行っていたのである。政治家として失格である。
侍従長の鞠武は「侮られたくらいの恨みで、どうして秦の逆鱗にふれようとなさいますか」と太子丹を諌めた。
しばらくして、秦の将軍の樊於期が秦王の咎めを受けて、燕に亡命してきた。太子丹は彼を受け入れることに決めたが、侍従長の鞠武は、「秦王の燕に対する怒りを増幅させることになります。『肉を積んで餓えたる虎の通り道に当てる』というものです。樊将軍をすみやかに匈奴の地へ送り込み、燕侵攻の口実をなくしてくださいませ。そして、西は趙・魏・韓と同盟し、南は斉・楚と連合し、北は単于と講和をなさってください」と諌めて言った。
太子丹は反発して言った。
「そちの計画は時間がかかりすぎる。わが心は憂い乱れ、少しも待つことができぬ。それに、樊将軍は天下のだれも手をさしのべぬ窮地にたって、このわしを頼って身を寄せてきたのじゃ。見殺しにはできぬ」
鞠武は食い下がった。
「ただ一人の新しい交わりを大切にして、国家全体の大難を気にかけないのは、『怨みを増大して、禍を助長する』ものです。猛禽のごとき秦がその凶暴な怨みと怒りを爆発させると、その結果は申すまでのことではありますまい。燕に田光先生という知恵深く、勇敢沈着なかたがおられます。ご相談されるのがよいでしょう」
田光は御殿にやってきた。
太子はいんぎんに案内し、床に膝をついて田光の座席の塵をはらった。異例ずくめの接待である。田光が座におちつくと、太子は懇願した。
「燕と秦は並び立ちません。先生、いいお考えはありませんでしょうか」
田光は答えた。
「わたくしは、老人になり駄馬と同じで役に立てません。もう精気消耗してしまい、国の大事には当たれません。お役に立ちますのは親友の荆轲でしょう」
太子は言った。
「どうかその荆轲を紹介していただけませんか」
太子は田光を門まで見送って、最後に言った。
「これは国の一大事です。どうか先生、他言なさいませんように」
田光は頭を下げ、ほほえんで答えた。
「たしかに」
田光は荆轲のところに出かけて、太子丹とのやりとりを話した。
「私はあなたを推薦した。太子の宮殿に行ってくださるでしょうな」
荆轲は答えた。
「お言葉通りにいたしましょう」
田光は言った。
「太子は『他言なさらぬように』と言われた。どうかいそいで太子さまのもとへ行ってほしい。そして、『田光は他言いたさぬ証としてすでに死にました』とお伝え願いたい」
そう言いおわるや、首をかききって死んだ。田光は大夫つまり知識人である。古代中国では、人に疑われるのは義侠の男でないということである。田光は名がすたったと感じ、自害して秘密を完全に守ったのである。このような任侠な中国人がいまもいて欲しい。
荆轲は太子に会い、田光はすでに死んだと語り、田光の言葉を伝えた。
太子はそれを聞くや茫然として、床に膝をついたまま前に進み出て、涙を流した。しばらくして口を開いた。
「口外せぬようにと言い添えたのは、国の大事である策略を成しとげたい心からであった。田光先生が命にかえて他言せぬとあかしをたてられたのは、それがしの本意ではなかった」
太子丹は自分の言葉が相手にどう受け取られるかを思い巡らすことができなかったのだ。
太子は自分の考えと計画を話し始めた。秦のあくなき野心や貪欲を責め立てた。楚や趙が秦の大軍の前で風前の灯火になっていることを訴えた。
「秦王の首に匕首(あいくち)をあて、脅迫して諸侯から奪った土地を返還させるのです。もしそれができなくても、すきを見て秦王を刺し殺すのです。秦の国内で混乱がおこれば、君臣は疑いあいましょう。そこで諸侯が合従できれば、秦を打ち破ることは確実です。それがしにはこれが何よりの念願なのです。この使命を誰にゆだねるものを見いだせずにおりました。どうか、荆轲どの、この件ご考慮くだされますか」
諸侯の合従うんぬんの下りは相手を説得するためのつけたしである。要は、太子は秦王に対する個人的な怨みを果たせれば満足である。
しかし、荆轲は辞退した。
「わたしはつたないものでして、国家の一大事には当たれまいと存じます」
太子は頭を床につけて最敬礼し、ぜひとも辞退しないでほしいと懇願し、そこではじめて荆轲はひきうけた。
荆轲は一度辞退したが、当初から最後には受けるつもりであったに違いない。尊敬する田光先生に国の重大事を果たすよう依頼され、先生は自刎されたのである。受けない訳にはいくまい。太子丹は土下座までして荆轲に懇願した。もはや、荆轲は逃れないとして承諾したのであった。この時、荆轲の死が確定したと言ってよい。荆轲は衛の出身で、先祖は斉の人である。燕は彼の祖国ではない。外国のため、いや太子の自己の怨みを晴らすために死地に赴くのであるから、心中穏やかであるまい。しかし、逃げることはできない。有能な刺客に生まれたからには宿命だ。天下が強国秦による統一へと向かうなかで、抵抗勢力は苦悩していたのだった。
荆轲は、上卿の官位と高級住宅が与えられた。太子は毎日その宿舎に行き、最高の料理でもてなし、財宝を差しいれ、車や美女を提供した。贅沢のやり放題にさせた。中国の歴史の節目にはしばしば美女が登場する。
時間がたったが、荆轲は出発しようとしなかった。紀元前228年、秦は趙を滅ぼし、軍が燕の南端まで迫ってきた。太子は恐れおののき、荆轲に催促した。
荆轲は言った。
「今すぐに出かけましても、手ぶらでは秦王の謁見は叶いませぬ。秦王が喜びそうなものをあれこれと考えておりました」
荆轲は一呼吸おいて、静かに言った。
「樊於期将軍の首と燕の督亢の地図を秦王に献上できれば、謁見が許されるでありましょう」
樊於期将軍の首と聞いた太子は、
「ならぬ。考え直してくれ」と狼狽した。
秦を脱走した樊将軍の首には、金千斤と一万戸の領地がかけられている。秦王は是非とも得たいものであった。督亢は肥沃な燕の土地である。地図を献上することは、古代中国では領土を割譲することを意味していた。太子は天下で唯一自分を頼りにして、燕に亡命してきた樊於期将軍を憎い秦王に差し出すのが耐えられなかった。
荆轲はひとりで樊於期将軍を尋ねた。将軍は秦王と意見が合わず、父母・一族は皆殺しとなり、財産は没収されたので、秦王を怨んでいた。
「この於期はそれを思い出すたびに、骨の髄まで痛みをおぼえる。しかし、それを雪ぐにどんな策があるか考えもつかない」
将軍は涙を流しながら言った。
そこで、荆轲は言った。
「燕国の憂いをなくし、将軍の仇を討てる策がありまする」
樊於期は身をのりだして、訊ねた。
荆轲は答えた。
「将軍の首をいただき、秦王に献上いたしたい。秦王は喜んでわたしを引見するでしょう。わたくし左手で秦王の袖をつかみ、右手で胸を刺し通してくれます。将軍どのの仇は討て、燕は恥辱を雪ぐことができましょう」
樊於期は興奮し、膝をのりだして、
「それだ。日も夜も歯ぎしりして心を砕いておった。今やっとよい言葉が聞けたわ」と言うと、首をかき切って果てた。
太子丹はこれを聞くと、急いで馬車でかけつけ、死体に身をなげかけ、声をたてて泣いた。しかたなく、樊於期の首を函(はこ)に収め封をした。
荆轲は徐夫人という名の匕首が百金で入手できた。その刃に毒を塗り、ためしに人を刺すと、傷口から糸すじほどの血がしみでるだけで、たちどころに絶命した。
太子は秦舞陽なる勇士を荆轲の添え役としようとした。旅装を整え、出立の準備ができた。しかし、荆轲はまだ動こうとしなかった。ひとを待っていたのである。13歳で人殺しをしたという秦舞陽がそれだけで荆轲の補助役を担えるとは思えなかったのである。
太子はなかなか出立しない荆轲を命が惜しくなって心変わりしたのではないかと疑い、
「秦舞陽を先につかわそうと思うが・・・」
と言うと、荆轲は激怒した。
「いっしょに行く友を待っているのでござる。太子さまが遅いと言われるのであれば、さっそく出立申そう」
樊於期将軍の首は函のなかに詰められたままである。冷蔵庫などがなかった当時、悪臭で周りが困ったのではないかと考えられるが、実際どうしたのであろうか。筆者はこの点をうまく解説したものを読んだことがない。
太子丹は落ち着きがない。この太子の急きたてが結局暗殺失敗の大きな原因となる。太子は古代のKY(空気が読めない)のひとであったのだ。最後の詰めでしくじる原因をつくってしまった。
太子と関係者は喪礼の服装でふたりを見送った。男たちはみな涙がこみあげて泣いた。
冒頭の歌を荆轲がたかぶった音調で歌ったとき、男たちはみな目を怒らせ、髪は逆立って冠をつきあげた。司馬遷は『史記』で別れの情景をそのように表している。
易水河が流れる河北省易県は北京市の南西150キロに位置する。春分の日に出かけた。北京の最高気温は2日前に29度と観測史上最高温度を記録していた。この日も揺り戻しがあったとはいえ、20度に達する暑い日であった。荆轲が易水河を渡って行ったのは2200年前の冬のことである。風萧萧というイメージは全く湧かない。今の易水河にはほとんど水が流れていない。川底にはブルトーザーやトラックが入り、護岸工事を行っている。
易水河を見渡せる小高い丘の上には、煉瓦造りの荆轲塔が立っていた。荆轲を祀るためである。荆轲の霊を鎮めなければならない。
秦王は燕の使者が樊於期の首と督亢の地図を献上しにやって来たと聞くと、いたく喜び、朝廷での正装をつけ、最高の礼で、燕の使者を咸陽宮で引見することにした。
荆轲は樊於期の首をいれた函をささげ、秦舞陽は地図を納めた小箱をささげ、順に進み出て、秦王の玉座の前まで至ると、秦舞陽は顔色が変わってふるえおののき、居並ぶ臣下たちはいぶかしく感じた。この時、荆轲はやはり秦舞陽を連れてくるのではなかったと思ったに違いない。しかしもう遅い。どうにか取り繕わなくてはならない。
荆轲はふりむいて秦舞陽のさまを笑い、前に出てあやまった。
「この男、北方の田舎者、天子さまに拝謁したことがござりませぬので、おののき恐れておりまする。大王さま、しばらくご辛抱願いたてまつる」。
秦王は荆轲に命じて、督亢の地図を持ってこさせた。荆轲は地図を取りだしてさしだした。秦王が地図をひろげていくと、
―図きわまりて、匕首(あいくち)あらわる。
荆轲は予定どおり匕首を右手でつかむと、左手で秦王の袖をつかみ、右手で突き刺した。しかし、とどかない。秦王は驚き、身をひいて立ち上がった。秦王は剣を抜こうとしたが、すぐには抜けない。剣が長すぎるのである。周りで見ている臣下たちは武器を持つことが許されていないばかりか、命令がなければ昇殿できない。荆轲はずっと秦王を追いかけている。秦舞陽はわなわなとふるえているだけで、立ちすくんでいる。荆轲が待っていた友人であれば、秦王を後ろから羽交い絞めにしたことであろう。そうすれば計画は成就したのだった。そのはずだった。現実は、ふたりの追っかけっこが続く。
お付のものが叫んだ。
「王さま、剣を背中へ!」
慌てている際の長い剣の抜き方である。
王はやっと剣をぬきはなつと、荆轲の左ももを切り裂いた。荆轲は足を引きずりながらも、匕首を秦王めがけて投げつけた。しかし、当たらなかった。少しでもかすっていれば、中国の歴史は変わったかも知れない。秦王はさらに荆轲を切りつけた。
荆轲は死に際に言った。
「失敗したのは、王を生かしたままでおどしつけ、約束をとりつけようとしたからだ」
言い訳であった。
こうして秦王暗殺は果たせなかった。
この事件で秦王は激怒し、燕を討った。十ヶ月で燕の都は落ちた。太子丹らは遼東に逃げた。燕は秦王の怒りをおさめるために、太子丹の首を献上したが、秦はさらに軍を進めた。効果がなかったのだ。五年後の紀元前222年、秦は燕を滅ぼした。秦が中国を初めて統一する前年のことであった。
秦の軍に殺された人々は秦王を強く怨んだ。機会があれば、報復したいと誰もが考えていた。戦国時代、天下統一をかけて多くの人々の命が落とされた。血で血を洗う戦いが続いた。
一方、秦王は他国の趙で人質の子供として生まれた。秦と趙の政治状況において、いつ殺されてもおかしくはなかった。ひとを信じない子に育ったのであろう。さらに秦王に衝撃的であったのは、彼自身秦王朝の血を受け継いでいないと知ったことである。
“奇貨置くべし”で有名な豪商呂不韋が妾に産ませた子供が秦王であった。幼少のときの名は政。
政は秦王となると、天下統一に向けて突っ走る。天下統一の意義は何であったのであろうか。人々に怨まれようと平和到来のためにやらねばならない。天下統一によって戦争を終結させ、人々を苦しみから救おうとしたのであろうか。現代人の立場からは、個人の名誉からでなく、そう信じたい。
五百年にわたる春秋戦国時代を終わらせる巨大事業は普通の者にはできない。冷徹非道極まりない心で決行しなくてはいけない。冷たい心をもつ君主でなければこの巨大事業はなしえないのであろう。人民に愛される王では乱世を終わらせることはできないのであろう。
司馬遷も刺客列伝の最後を次の文章で締めくくっている。
「曹沫から荆轲までの五人(の刺客)、義侠の行ないを成しとげた者も成らなかった者もいる。けれどもその心ばえは明白であって、志にそむきはしなかった。名声が後世に及んだのは、けっしていわれのないことではない」
参考文献:
- 『史記』列伝(二)司馬遷著(岩波文庫)
- 『小説十八史略傑作短編集』陳舜臣著(講談社文庫)
- 『小説十八史略』(一)陳舜臣著(講談社文庫)