【18-01】日本に渡った秘色青磁
2018年 4月30日
安琪(AN Qi):上海交通大学人文学院 講師
2001.9--2005.6 四川大学中文系 学士
2005.9--2007.6 ロンドン大学東洋アフリカ学院(SOAS)歴史系
東洋歴史専攻 修士課程修了
2008.9--2011.6 四川大学文学・メディア学院 中文系
文化人類学専攻 博士コース
2010.9--2011.8 ケンブリッジ大学モンゴル中央アジア研究所(MIASU, University of Cambridge) 中英博士共同育成プログラム 博士号取得
2011.8--2013.11 復旦大学中文系 ポスドク
現在 上海交通大学人文学院の講師として勤務
平安朝(794-1192)の貴族階層の間では、中国南方で生産された青磁器が最高級の「唐物」の化身とされ、とりわけ「秘色青磁」と呼ばれる青磁の極上品は、日本の古典文学に数々の痕跡を残した。最も早期の記録は、951年(天暦5年)前後の『吏部王記』に見られる。これは醍醐天皇の第四皇子である重明親王(906-954)の日記の断片であり、6月9日付けで、天皇に捧げられた「忌火御膳」の膳卓には、4つの木の皿に食物が盛られ、さらに沈香と瓶も添えられ、瓶には「秘色」が用いられたと記載されている。天暦年間(952-970)の『うつほ物語』にも、秘色青磁の登場する場面がある。かつて大宰府長官ともなった滋野真菅が、驚くべき数の「唐物」を贈り物として携え、源正頼の娘のあて宮に求婚する。食事をする時、滋野真菅は「秘色の坏」を用いるが、息子や娘は金の杯や碗を使う。磁器と金属の器のランクの差がうかがわれる[1]。
1006年(寛永43年)前後に成立した『源氏物語』の「末摘花」巻では、秘色青磁が、より生活の匂いのするシーンに出現している。光源氏は、常陸親王の娘の末摘花に現実的でない幻想と愛慕を抱く。光源氏は好奇心から、この高貴な娘の屋敷にこっそりと忍び込む。窓の格子から覗き込むと、古ぼけた屏風の後ろで、末摘花の侍女らが飯を食っているのが見えた。粗末な料理は秘色青磁の碗に盛られ(原文は「秘色やうの唐土のもの」)、侍女の白い衣と前掛けは汚れに汚れ、生活の困窮と悲惨さがうかがわれた。彼女らは飯を食いながら、互いに心配を語り合い、今の暮らしはあまりにも苦しい、常陸親王が存命の頃とは比べ物にならないとため息をついていた。
上記の3本の資料からは、秘色青磁が、用途はいくらか違っても、10世紀中期から11世紀初期にかけて、平安朝の貴族階層だけが使用できる物品だったことがわかる。
では秘色青磁とは何だろうか。まず答えなければならないのは、「秘」と「色」の意味である。「秘色」の「秘」については複数の説があるが、伝統的な解釈としては次の幾つかが挙げられる。第一に、宮廷専用に提供され、宮廷の奥深くにあって人目にさらされず、数量が極めて少ないことから「秘」と呼んだという説。この説は、宋代の人によって提起されたもので、周輝は『清波雑誌』巻五で、「越上秘色青磁,銭氏有国日供奉之物,不得臣下用,故曰秘色」と記している[2]。第二に、「秘」は実は「碧」であるという説。二つの字は読みが似ており、碧玉のような質感のある越州窯の磁器を指したとされる[3]第三に、「秘瓷」は実は「密瓷」であるとする研究者もいる。「秘」と「密」の二つの字は古代においては互いに代用されることがあった。一種の密封式の焼造技術を指すとされる。磁胎を窯に入れて焼成する前、「一鉢一匣」の方式を取り、匣と鉢の接続部の外壁に釉を塗り、器皿と窯内外の温度を一致させ、磁胎の変形を防止し、歩留まりと釉面の光沢度を確保した。秘色の「秘」はこれを由来とする可能性もある[4]。
「秘色」の「色」については、千百年以来、人々は、唐代の詩人の描写を引用してきた。陸亀蒙の詩『秘色越器』にある「九秋風露越窯開,奪得千峰翠色来」という句や、徐夤の詩『貢余秘色茶盞』にある「捩翠融青瑞色新,陶成先得貢吾君。功剜明月染春水,軽旋薄氷盛緑雲」などがそれにあたる。だが唐代の詩人の眼中の「千峰翠色」や「薄氷盛緑雲」とはいったいどんな色だったのだろうか。長い間答えるすべのなかったこの疑問は、法門寺地宮が開かれたことにより、正しい答えを得ることとなった。
1981年8月の大雨の後、唐高宗顕慶五年(660年)に建てられた陝西扶風の法門寺の塔が倒れた。その6年後、塔の土台を整える作業が意外なできごとによって中断された。塔の土台の下の地層中に、考古学者が秘密の地宮(地下宮殿)を発見したのである。その中からは、金銀の器や玉の器、琉璃の器、絹織物、磁器、仏骨など大量の文化物が出土した。すべて唐王室が仏に供えた至宝だった。その価値と数から見れば、法門寺で見つかった唐代の宝は、奈良の正倉院に収められている唐代の文化物にも匹敵する。地宮の奥の部屋からは白檀の木箱が見つかり、緑色の磁器が重ねられて合計13点入れられていた。物品を収める際に掘られた石碑(『衣物帳』と呼ばれる石碑)の碑文の記載によって、これらの青磁が唐懿宗(在位860-874年)と唐僖宗(在位862-888年)の両帝王が咸通十四年(公元873年)に仏への供物として埋めたものであることがわかった。唐懿宗が与えた物品として、碑文は、「瓷秘色碗七口,内二口銀稜,瓷秘色盤子、畳子共六枚」と記している[5]。これは出土した青磁の数量の13点とちょうど符合し、それらが皆、9世紀中期に越州窯で産出された秘色青磁であったことが示された(図1、2)。
図1 八稜浄水秘色青磁瓶(法門寺地宮出土)[6]
図2 五弁葵口凹底深腹秘色青磁皿(法門寺地宮出土)[7]
中国の陶磁史に秘色青磁が出現した年代は通常、五代期(907-960年)とされていた。五代以前の唐代(618-907年)にも、多くの唐代の文人が秘色青磁について著名な詩句を残しているが、実物の証拠を欠き、まだ解けない謎となっていた。法門寺地宮の秘色青磁が見つかって初めて、この古くからの懸案に明確な答えが出た。
法門寺秘色青磁は、その後の秘色青磁の鑑定に基準を与えるものとなった。地宮から出土した秘色青磁の碗や皿、瓶はいずれも青釉で飾られている。施釉方法には、器の内側と外側を釉で覆う細密な工法が取られ、釉面は潤沢で光り輝き、釉層には透明感がある。焼成技法を考えると、法門寺の秘色青磁は匣鉢(こうばち)焼成、つまり素地一つひとつを単独で匣鉢に置いて焼成する方法が取られた。この13点の青釉秘色青磁の色調と色度は完全には一致せず、最も優れた釉の色は翠緑色で色調は鮮やかで明るく、みずみずしい。それよりわずかに劣るのは青黄色、または灰色がかった翠緑色である。全体としてみると、法門寺の秘色青磁の釉面のガラス化効果は極めてよく、色は純正の青翠色を示し、表面はしっとりと滑らかで、器形は整い大らかで、優美さと柔らかさを尊ぶ唐宋時代の上流社会の審美感に合い、「秘色青磁」についての唐代の詩の記載を裏付けるものともなった。
法門寺の秘色青磁は南方の越州窯の献上した磁器である。唐代の茶道体系においては、越州窯の磁器は最高ランクの器物とされ、茶聖の陸羽は『茶経』においてこれをあらゆる磁器の最高品としている。「(茶)碗,越州上,鼎州次,婺州次,嶽州次,寿州次,洪州次」。越州窯の窯場の範囲は広く、浙江北部沿岸の江北や鎮海、奉化、余姚、寧波、象山などの地を含み、広大な磁器産業の体系をなしていた[8]。この地に窯が設けられ、磁器が作られるようになったのは後漢の時代からで、唐代に全盛期を迎え、北宋の後、徐々に衰退していった。寧波紹興地区の考古資料によると、唐代から北宋にかけて、上虞と余姚上林湖、東銭湖周辺の窯の所在地は100カ所にのぼり、300年余りにわたって続いたという。浙江地区はもともと人口が多く物産が豊かで、毎年、金珠や絹織物のほか、大量の越州窯青磁を朝廷に献上していた。『呉越備史』や『十国春秋』、『宋史』などの書にはいずれも、軍閥政権の呉越国(893-978)が中原の王朝に秘色青磁器を献上した事が記載されている。
ちょうど法門寺で秘色青磁が見つかった1987年(昭和62年)、日本の福岡市中央区の太宰府鴻臚館跡からも驚くべき数の越州窯青磁が出土した(図3)。8世紀末の地層から11世紀の地層までいずれも青磁の破片が出土した。品質から見ると、鴻臚館の青磁は法門寺青磁のレベルにははるかに及ばず、器形も多くは日常的に用いられるもので、茶碗や大皿、小皿、鉢、水注が主だった。考古学研究によると、日本で青磁の出土した地点は合計185カ所で、九州から本州北端までにわたって分布し、南には鹿児島南仲町遺跡があり、北には秋田城跡がある。越州窯青磁が最も多く出土しているのは九州で、鴻臚館跡がその代表と言える。
図3 福岡鴻臚館跡で出土した越州窯青磁花文碗[9]
それではなぜ中国呉越地区の青磁が日本に出現したのだろうか。これを知るには遣唐使と10世紀前後の中日磁器貿易に遡る必要がある。舒明天皇2年(630年)から宇多天皇の寛平6年(894年)まで、遣唐使は合計19回にわたって中国に派遣された。そのうち実際に唐朝に到達したのは15回だった。人数は最初の120人余りから、後には650人余りに増加した。派遣された人員には、政府の役人のほか、大量の留学生や学問僧が含まれていた。遣唐使の中日両国間の往来は、東北アジア地域の物品の流通を促進した。磁器やガラス、彩帛、香料、各種楽器、文具、家具、仏教聖物、経文などの物品は、遣唐使の往来を利用して中日両国間を流動した。だが天宝年間の戦争の後、唐政権は混乱に陥り、中日間の外交と商業の関係は悪化し、寛平6年(894年)に完全に切断された。この年、宇多天皇は、菅原道真の提言を受け入れ、中国への遣唐使派遣を正式に停止した。
遣唐使の派遣が終わった後も、中日の民間交流が途絶えることはなかった。10世紀初期までに、五代呉越国と日本との商業・貿易の往来は、物品流動の最も重要な紐帯となった。前述のように、秘色青磁は越州窯青磁の極上品だったが、皇室にだけ献上されていたわけではなかった。消費と流通のレベルでは、秘色青磁は「秘」という名を持ちながら、秘密の物品ではなかった。唐宋時代の越州窯青磁は、上は帝王から下は平民までの物品であり、流通範囲は非常に広かった。考古学的な裏付けによると、9世紀初期から北宋期までに越州窯青磁は海外に販売されるようになり、秘色青磁は、中国の南北の各地に流通するだけでなく、海路を通じてアジアやアフリカの各国に運ばれた。呉越国の時代には、銭氏政権が国力を増強し財産を蓄積する重要な手段となった。『日本紀略』や『扶桑略記』、『旧五代史』、『呉越史事編年』などの文献の記載によると、呉越国は海外の磁器市場を大いに開拓し、日本と貿易関係を打ち立てた。醍醐天皇(898-930)と村上天皇(947-967)の時代には、呉越国から日本に少なくとも13回にわたって商船が赴き、越州窯青磁は主要な交易品の一つとなった。
当時の呉越商船は明州港から出発し、東中国海を越え、九州南西部の海岸を経て博多港に入った。福岡の太宰府鴻臚館は、当時の日本政府における外交と貿易を担当する唯一の機関であり、呉越国の商人が日本で滞在する場所だった。大宰府は外国貨物に対して先買権を持っており、朝廷から派遣された「唐物使」が鴻臚館での貨物の検査を担当し、朝廷のために物品を選んで購入した。その後、太宰府の役人の監視の下、民間貿易が行われた。このような平安政府が直接に干渉し、太宰府が管理を担当する官商貿易は、「鴻臚館貿易」とも呼ばれた。
鴻臚館で展開された民間貿易は、遣唐使の廃止による貿易の中断を補い、日増しに人気の高まる「唐風」に物資の補充を提供した。巨大な利益に駆り立てられ、中国の商船は絶えることなく「唐物」を日本にもたらし、同時に大陸に仏法を求める僧侶もしばしば商船に乗って中日両国の間を往来した。
だが鴻臚館で出土した青磁はほとんどが並の品質の日用器具であり、入念に作られた高水準の青磁は有力貴族の集まる奈良や京都に出現することとなった。9世紀中葉以降、浙江余姚上林湖窯を産地とする秘色青磁は海上貿易を通じて平安京に運ばれるようになった。天暦4年(950年)に書かれた京都仁和寺の資材帳『仁和寺御室御物実録』には「青磁多盛天子御食」と記載されており、宇多天皇の蔵品にも青磁の茶壺や茶碗などがある。奈良の平城京と京都の平安京と長岡京の遺跡からは、9世紀から11世紀の青磁が大量に発掘されている。器形には、唾壺や花台、香炉などの物品が含まれ、その品質は鴻臚館の青磁をはるかに上回る。
『源氏物語』に話を戻すと、末摘花が裕福な常陸宮から継承した秘色青磁碗は、鴻臚館で見られるような庶民の用いる青磁ではなく、当時最高級の「唐物」だっただろう。ただ紫式部の筆の下の末摘花の屋敷は、その女主人と同様、堅苦しく、保守的で、古くさく、衰退した雰囲気に満ち、屋敷で使われている物も、高貴だが時代遅れの物ばかりで、過ぎ去った時代を象徴しているようである[10]。紫式部の時代には、日本本土の「国風文化」が発展し、成熟してきた時期だった。これと比べると、平安朝初期の嵯峨天皇(在位809-842)が推進した「唐風文化」はこの時、ゆっくりと衰退に向かっていた。「唐物」は、貴族の生活の中にまだあったが、その輝かしい時代はすでに過ぎていた。漆器や大和絵などの日本の風格を備えた造型芸術の台頭は、日本がアイデンティティを探る過程で「唐文化」を絶えず吸収・消化し、それを土台として「国風文化」を形成したことを示している。紫式部以降の数世紀の間、「唐風」と「和風」は共存し、一種の独特な二重の文化体系を構成し、その影響は今日まで続いている。
[1] 亀井明徳著・王競香訳「日本古代史料中『秘色』青瓷的記載與実例」,『文博』1995年第6期。
[2](宋)周輝『清波雑誌』巻5,上海古籍出版社,1991年,36ページ。
[3] 李剛「『秘色瓷』探秘」,『文博』1995年第6期。
[4] 董兆良「上林窯工」,『文博』1995年第6期。
[5] 馮先銘ら「法門寺出土的秘色瓷」,『文物』1988年第10期。陝西省法門寺考古隊「扶風法門寺塔唐代地宮発掘簡報」,『文物』1988年第10期。
[6] 写真引用元:http://www.gongpin.net/news/item_37529.html
[7] 写真引用元:http://www.zhongguociwang.com/show.aspx?id=10707&cid=114
[8] 金祖明「浙江余姚青瓷窯址調査報告」『考古学報』,1959年3月。
[9] 本画像は「越州窯青磁花文碗」を所蔵する福岡市埋蔵文化財センターより許可を得て転載。
[10] 河添房江『源氏物語時空論』,東京大学出版会,2005年,103-109ページ。