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【20-14】楚州 古代水運の十字路 江蘇省

2020年10月13日

阿南ヴァージニア史代

阿南ヴァージニア史代

米国生まれ。東アジア歴史・地理学でハワイ大学修士号。台湾に留学。70年日本国籍取得。1983年以来、3度にわたって計12年間、中国に滞在。夫は、元駐中国日本大使。現在、テ ンプル大学ジャパンで中国史を教えている。著書に『円仁慈覚大師の足跡を訪ねて』、『古き北京との出会い:樹と石と水の物語』 、『樹の声--北京の古樹と名木』など。

 楚州は、今、淮安市の歴史地区となっているが、昔から大運河と淮河の交差する重要な地点に位置している。

 幾つかの水門(船閘)で船は運河から淮河へ接続し、そのまま外海に航行して行く。

 その逆に、海岸からやって来る船は、大運河網に進み、多くの都市を繋いでいる。

 これらの水門は現在も、頻繁に使われているが、淮河は数世紀を経て堆積を重ね、その主流は南へ向かって揚子江に注いでいる。

 しかし、今なお淮河から分かれた幾筋かの運河は、古代の流れのまま外海へと続いている。

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淮安市の大運河と淮河からの蘇北運河を結ぶ水門(運東船閘)

 私は、その光景を見て、何故、9世紀日本の天台僧円仁が幾度も楚州を通らなければならなかったのかを理解することが出来た。円仁は10年に及ぶ唐滞在の間に、3度、この城壁に囲まれた都市に滞在している。「円仁日記」を読むと楚州は非常に重要な場所であった。私は2度の訪問中に、円仁の此処での体験を辿ってみた。

 円仁の最初の楚州訪問は大運河経由であった。円仁と3人の弟子達は、揚州で7カ月を過ごした後、400人の遣唐使随員たちと行動をともにした。彼らの乗った10艘の繋がれた船は、北へ向かってゆっくりと進み、何度も停泊した後、4日目に楚州に到着した。私は運河を行く一連の荷船を見て、当時の様子に思いを馳せた。唐時代、荷船は官製の塩を運搬したが、今では、砂や砂利が主な積み荷となっている。『円仁日記』839年2月24日、「午后5時、我々は楚州城市へ到着した... そして、開元寺へ赴き、その西側の塔頭に宿泊した」。此処で、円仁は遣唐使一行に合流した。一行は長安で皇帝に拝謁した後、日本へ帰国する途次であり、水路を通って楚州に至ったのであった。この時、円仁は大きな悩みを抱えていた。それと言うのも、彼自身としては、中国にもっと滞在したいと願っていたのに反し、特別の許可無くしては、遣唐使一行と共に日本へ帰らなければならなかったからである。

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大運河運搬船の列

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大運河を行く運搬船。淮安市南

 唐に留まるために、円仁は通例に従って、強大な権限を有する水上交通管理庁から様々な許可を取得する必要があった。これなどは唐政府の整備された官僚機構の仕事ぶりを示す典型的な例であろう。この「漕運総督署」は、今も保存されており、在りし日の役所の姿を残す図表が壁に貼られていた。昔の建物の破片が散らばっており、正門の遺石の間を、子供達が跳んだり跳ねたりして遊んでいた。私も石に腰を下ろして、楚州名物の揚餅を楽しんだ。

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楚州の旧水上交通管理庁:「漕運総督署」の図

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「漕運総督署」正門遺石の間を子供達が遊ぶ

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楚州名物の揚餅

 円仁が滞在した楚州開元寺の正確な所在は、永いこと不明であった。円仁の記録には、開元寺から5里ほど離れた龍興寺に住んでいた中国僧が尋ねて来たとある。龍興寺は、既に存在していないが、幸いなことに、境内には708年に建てられた文通塔が今もその姿を残している。確かに、一つの手懸かりは得られたものの、5里というのがどの方角なのかについては見当がつかなかった。ところが、全くの偶然で、私と友人達は文通塔の後方にある勺湖園を散策していた時、石盤に薄く彫られた余り鮮明でない古代楚州の地図を発見したのである。勺湖園は円仁が834年、845年、そして847年に滞在許可を取るために何度も訪れた役所の所在地でもあった。地図上には、二つの寺院の場所が記載されており、私たちは、石板に紙を当て、鉛筆で拓本を採ることによって、開元寺は龍興寺の南5里の地点にあったことを確認できた。越湖畔の開元寺跡には今、淮安図書館が建っている。

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楚州龍興寺唐代文通塔

「円仁日記」にも記されているように、当時、楚州には朝鮮半島からの移住者の社会があり、それは相当、大きな規模であったので、彼ら自身の官憲や独立の役所まで有していた。新羅人は造船技術に優れていることで知られており、加えて、彼らは黄海、東海における唐―新羅―日本の交易の大部分を管理下においていた。楚州が、これら海商の根拠地となっていたため、遣唐使一行が9隻の帰国用の船を確保すべく、新羅人の支援を求めたのも不思議ではない。実際、60人以上の新羅人水夫が雇い入れられたのである。「円仁日記」839年3月22日の項には、「我々は全員、身を清めてから乗船した... 午后6時。東海へ向かって淮河へ乗り出した。後続の船が逸れないように合図の太鼓が打ち鳴らされた... 凪や満潮のため速度を落としつつ、(7日かけて)漸く大海に出ることが出来た」との記載がある。

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淮安市郊外にある運河のフェリー渡し

 今日の淮安市で忘れてならないのは周恩来記念館である。2007年、「円仁の足跡を尋ねる」グループと一緒に私は、先ず、大きなホールの中にある周恩来総理の大理石の座像に敬意を表し、次いで、近くの彼の生家を訪れた。周知のとおり、周恩来は楚州が生んだ最も卓越した政治家である。彼は、若い頃、2年間、日本に留学したことがあり、そこで初めてマルクス主義の洗礼を受けたという逸話は興味深い。記念館の館長以下が「円仁グリーンロード」植樹と周恩来追悼のため2本の櫻を植える活動に参加してくれた。

 記念館を辞して後、この町を離れるにあたって、私は数多くの運河と水路が縦横に走っている風景を目にし、驚きを新たにした。 正しく、楚州は千年の昔から水運の中心地であったのである。

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周恩来記念館の前にて、「円仁の足跡を尋ねる」一行

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周恩来記念館公園での「円仁グリ−ンロ−ド」植樹活動


※本稿は『中國紀行CKRM』Vol.19(2020年5月)より転載したものである。