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【18-02】友情と感激の中で築いていった研究人生

2018年 2月28日

本稿は中国総合研究交流センター編『縁遇恩師 ―藤嶋研から飛び立った中国の英才たち―』より転載したものである。

陳 萍: 中国科学院理化技術研究所研究員、博士課程指導教員

 中国科学院理化学技術研究所研究員、博士課程教員。1963年天津南開大学化学学部を卒業、中国科学院に配属される。化学研究所、感光化学研究所、理化学技術研究所などで研究を行い、中国科学院感光化学研究所の副所長を務めた。中国感光学会常務副理事長兼秘書長。欧米同窓会日本留学分会副理事長。中国印刷設備・器材工業協会技術委員会委員。感光材料標準委員会副主任。印刷材料標準委員会副主任。中国の感光化学と印刷分野における著名専門家である。1983年、客員研究員として東京大学工学部に留学、1986年1月、藤嶋教授が最初の主宰主審で東京大学工学部初の外国人女性工学博士号取得。

初めて日本に学び、藤嶋昭先生と直接接する

 私が日本に留学してから30年以上たった。すでに古稀を超えた私は、今でも愛する研究室で仕事を続け、研究の話になると楽しくてしかたがない。1983年1月6日、初めて東京大学を訪れたこの日は、私にはまるで昨日のことのようだ。

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1985 年、日本にいたころの筆者(仙台にて撮影)

 1963年に南開大学を卒業した私は、中国科学院化学研究所で勤め始め、1975年に新しく設立された中国科学院感光化学研究所に移った。1983年、43歳になった私は、中国科学院に推薦され、中国教育部の資金援助を受けて客員研究員として日本への研修に派遣された。日本に行く前、中国科学院感光化学研究所の江龍教授(現・中国科学院院士)は、日本に行くなら一番いい大学に行くべきだと私に言った。折良く江教授は会議で東京大学の本多健一先生と面識ができ、本多先生は私に自分の研究室に来るよう勧めた。

 それより前、私は1970年代に化学界を揺るがした「本多-藤嶋効果」によって本多健一先生と藤嶋昭先生を知っていた。本多研究室の光触媒研究と私の感光化学は方向性が一致しており、私はその名声を慕って申請を出した。ちょうどその頃、本多研究室の助教授となった藤嶋先生が中国へ学術交流に訪れたので、私の面接試験をすることになった。しばらくして、本多先生は「喜んで受け入れます」と江龍教授に連絡を入れてきた。このようにして、私は江教授の推薦を受け、本多研究室で研究をする機会を得たのである。

 日本留学というと、私は最初に東京大学を訪れたときの景色を思い出す。まず目に飛び込んできたのは、徳川時代の典型的な建造物であり、東京大学の象徴である赤門だ。続いて写真集で何度も目にした古い時計塔。これらは東京大学の歴史だ。さらに奥へ入り、本多研究室は東京大学メインキャンパスの北端の5号館にあった。ここは私の留学生活が始まり、今でも鮮明に覚えている場所なのである。本多研究室は藤嶋研究室の前身で、有名な「本多-藤嶋効果」は藤嶋先生と本多先生が共同で発見した化学現象だった。私が本多研究室に入った頃、藤嶋先生は本多研究室の助教授であった。2年後、本多先生は京都大学へ転出し、藤嶋先生が教授となって藤嶋研究室になった。

 私の留学生活は本多研究室で始まった。私の日本での研究は国の公務派遣であり、中国教育部と日本の文部省の両方からの資金援助があったので、日本での生活は基本的に保障され、全身全霊を注いで学習と研究に打ち込むことができた。

 国内での研究テーマは感光化学であったが、本多研究室では電気化学を専攻し、これによって感光化学をベースにしてより多くの知識と研究手法をマスターすることとなった。1980年代に日本はすでに先進国であったが、コンピュータはまだ今のように発達していなかった。当時、実験データグラフを描くのは今のように便利ではなく完全に手作業で、さまざまな定規を使って大小の数字、アルファベット、曲線を組み合わせ、長い時間をかけてやっと完成させることができた。

 私は毎日定規を持って数字や線を書き続けた。実験データを整理して毎回美しいグラフを描き上げ、その多くが日本やアメリカの雑誌に掲載された論文に使われたのである。研修中の最初の2年で私は5本の論文を発表し、さらに全国的な学会で口頭発表も行った。

 私が客員研究員として本多研究室に来た時、中国の留学生は私1人だった。日本の学生はほとんど1階の研究室にいたが、私は本多先生や藤嶋先生のいる4階で、藤嶋先生と同じ部屋を与えられた。向かいの部屋は本多先生と高橋洋子技官の部屋である。これによって、私は偉大な化学者と接する機会、藤嶋先生の仕事ぶりを見る時間を多く得ることになった。私は藤嶋先生より2歳年上で、年齢が近く同じ研究室にいたので、いつも議論を戦わせ、時には言い争いになることもあったが、本当に心を通わせることができた。藤嶋先生は冗談交じりに私を「ねえさん」と呼ぶこともあった。

 藤嶋先生と私は住まいが離れていた。私は、異国へ勉強に来ているのだから骨身を惜しまず努力をしなければ成果が出ないと考え、毎朝7時30分には研究室へやってきた。しかしその時間、「藤嶋昭」の名札はもう裏返っているのである。ああ、藤嶋先生は私より早く来ている――先生は毎日一番に出勤して、最後に帰っている。私は感化され、自分は外国へ勉強に来ているのだから、怠けることは決して許されない。藤嶋先生を見習って毎日早く来て遅く帰ることにしようと思った。たいてい私は帰宅が夜遅く、終バスに乗って11時すぎに家へ帰り、夕食を食べながらテレビで日本語の勉強をしていた。本多先生はそれに気づくと、日本の学生たちに、私を見習えと言うようになった。

 藤嶋先生の努力は、周りにもいい雰囲気を作り出しており、周囲の人たちは彼の努力や目標に向かう精神に影響を受けていた。藤嶋先生にはのんびりしている時間はほとんどなく、研究室でもあらゆることについて注意深く質問し、指導とアドバイスをくれた。ほかの時間も、興味は読書や文章を書くことにあり、平日は大量の文献を読み、忙しい中でも多くの著書を書いた。それは学術的・応用的な角度から化学研究者、小学生、大学生、高齢者、企業に向けて光触媒の知識を普及するものであった。

恩師の指導で、飛び立つための羽をつけた

 藤嶋先生は、私から見て聡明で、機敏で、勤勉で、やさしい先生であった。新しい発見をするとすぐに研究をしてその結果を発表した。できるだけ早く論文を発表することが藤嶋先生のやり方で、発表されるのが超一流の雑誌であるかどうかは気にせず、研究過程で発見したことをできるだけ早く検証して発表し、その後改めて系統的に深く研究し、その分野での先頭の位置と権威性を確保しようとしていた。だからこそ、この分野で影響力を持つ論文のほとんどが藤嶋研究室によるものだったのである。藤嶋先生は研究室での学術的指導も、授業でも非常に優秀な教員であり、このような方に師事したことは私にとって大きな利益となった。

 教員としては、教えることが非常に重要だ。講義中は、聞き手の考えを把握することが教えるカギになる。藤嶋先生は授業前、非常に念入りに準備をし、授業の時間配分も考え、授業の終わりのチャイムが鳴ると、ちょうど講義が終わった。授業中も学生一人一人の視線の動きに注意し、学生の気が散っていると、少しユーモアのある話をして笑わせ、それから再度集中して授業をした。私は授業のしかたについて藤嶋先生に大きな影響を受け、帰国後の講義では藤嶋先生のように、自分の持つ知識を正確に、ユーモアを交えながら学生に伝えるようになった。

 本多研究室には優れた国際的な雰囲気があった。私は感光化学に関連した電気化学の研究を行い、当時の先端機器である回転リングディスク電極(RRDE)を使って感光過程の酸化還元反応を観察し、現像の最初に起きる酸化還元過程をとらえた。これは当時、先端技術であり、私はすぐに最初の化学論文を書いて発表した。これは1983年、私は日本に来てわずか2ヵ月後のことで、唐沢文男博士との共同発表であった。藤嶋先生は私の研究を気にかけ、励ましてくれていた。私はある実験を1ヵ月続けたのだが、何度やっても再現できず、最後に空気中の酸素量が影響しているとわかった。これは私の思いもよらなかった理由で、悔しくて涙が出たが、藤嶋先生は私をなぐさめ、すぐに研究室のお金を用立てて、乾燥石英酸素除去装置を作ってくれた。この装置のおかげで実験は成功し、論文はJ. Soc. Photogr. Sci. Tech. Japan に掲載された。

 1986年に帰国するまでに私は10本以上の論文を発表した。その間、私は日本写真協会の専門家、たとえば千葉大学の小林裕幸教授、三位信夫教授、東京工芸大学学長の菊池真一教授、浜野裕司教授、さらには三菱製紙研究所の二木清所長、富士フイルム研究所主任で国際画像技術学会主席の谷忠昭博士らと交流・協力をし、彼らの熱心な指導や支援を受けた。

 客員研究員として日本に来ていたため、私は当初、博士の学位を取ることは考えていなかった。しかし日本滞在中に発表した論文はすでに東京大学の博士の要求に達していたため、本多先生は、私に学位を取るための口頭試問を受けさせようと考えた。当時の中国科学院感光化学研究所長のサポートを受け、最終的に私は学位取得のための口頭試問を申請することにした。しかし、口頭試問の準備を始める前に本多先生は東京大学を離れて京都大学へ異動することになってしまった。本多先生は京都大学で口頭試問を受けてもよいと言ってくれたが、私は藤嶋先生やほかの先生の意見を聞き、最終的に東京大学に残ることを決めた。1984年12月の教授会で私の博士学位の口頭試問申請が認められた。1985年初め、私は客員研究員としての研究を終えて帰国し、口頭試問の通知を待つことになった。博士の試験と口頭試問のため、藤嶋先生は同窓生でキヤノン推進技術部長の中津井博士の資金援助を受けるなど特に準備をして、夏休みにあたる6月〜8月に東京大学で2ヵ月間実験できるように計らってくれた。その間、私は2本の論文を発表した。

再び日本へ、さらに一歩前進する

 1985年4月、本多先生の離任後、東京大学教授会を経て藤嶋先生は助教授から教授へ昇格し、本多研究室を藤嶋研究室として率いることになった。1985年末、私は再び東京大学を訪れ、藤嶋先生が行う博士学位の口頭試問の最初の受験者となった。私は東京大学工学部で最初の外国人女性工学博士となり、1986年1月、東京大学は工学博士証書を授与した。1988年1月、私が東京での会議に出席したとき、産経新聞がこのことについて取材をし、1月21日には「東大留学生、博士号取得の中国人女性研究者」として報道した。その後、私は北京で中国光明日報の取材も受け、1991年4月19日、「女性博士」として報道された。

 私は博士学位の口頭試問の期間中、さまざまな人からの支援を受け、非常に感激した。1985年末、口頭試問が行われる2ヵ月間の費用はすべて東京大学が援助してくれた。当時東京大学の資金援助を受けて外国人が博士学位の口頭試問を受けられる機会は非常に少なかったのである。このほか、新技術開発事業団(JRDC、現JST)プロジェクトの支援や友人たちのサポートもあった。私の下宿先の渡辺さん一家、日本感光色素研究所の小合社長、山野貿易株式会社の岡田社長などが私を支援してくれていた。私はずっと岡田社長を「おかあさん」と呼び、岡田社長はどんなに忙しくても私に電話をして仕事や勉強の様子を聞いた。最初のうち、岡田社長は私に手紙を書くよう求め、どの手紙もていねいに添削して返してくれたので、私の作文力は大いに向上した。このほか、研修中の最初の2年間、中国の駐日本大使館は日中友好活動をする渡辺社長の家を私の下宿先として紹介したので、私は渡辺夫妻にいろいろ面倒を見てもらった。1985年の夏休みと年末の2回、私は日本を訪れて実験と口頭試問に臨んだが、いずれも渡辺夫妻が成田空港まで迎えに来てくれ、さらに家でごちそうを用意してもらい、資金の援助もしてくれた。私はこのことに心から感謝したのである。さらに、日本の友人たちも私の論文執筆を助けた。研究室の高橋洋子技官は指導教員の秘書として、私の口頭試問のためにさまざまな努力をしてくれた。試験官たちの示す満足や賛辞を見れば、私の口頭試問への準備が細かいところまで行き届いていたことがよくわかる。今ではパソコンで論文を執筆するのは簡単だが、30年前にパソコンは今ほど普及しておらず、日本語で100ページ以上の論文を書くことは大変な作業だった。当時の最高レベルのパソコンはまだPC-8001 で、私は日本語を打つ速度が遅かったので、論文の多くの部分は実際には高橋洋子技官が手の空いた時間に私のために打ったものだったのである。また一部は、これも忘れてはならないが、萩原光子さんが私を手伝って打ってくれた。萩原さんは私が出版社で働いたときの友人で、まったく化学用語を知らず、化学式もわからなかったが、ミスなく正確な文章を打ってくれた。最終的に博士論文を装丁するととても美しく、手書きのものとは比べものにならなかった。私は東京大学の口頭試問を1回でパスして博士号の学位を取得し、試験官から高い評価を受けたが、少なくとも半分は彼女たちの助けがあったからなのである。

 博士論文の口頭試問の前には専門の試験に合格しなければならない。1985年11月~12月、私は優秀な成績で物理化学、英語、分析化学、有機化学などの試験に合格した。その後口頭試問になったが、私の博士論文のタイトルは「電気化学的方法を用いた感光化学における銀塩拡散転移過程の研究」であった。私の指導教官である藤嶋先生は、私の解答に厳しい要求を出し、時間は55~60分以内、日本語の論述は論理的で明確、はっきりと表現するよう求めた。そして藤嶋先生の前で行った予備試問で、私は先生のお墨付きをもらったのである。最終的に私は予備試問の段階で合格し、二次試問を免除された。その結果についても、また試問中の論述についても、藤嶋先生から高い評価を受けたのだった。

異国で、二つとない友情を得た

 私にとって、日本での生活は忘れられないものである。1983年初め、私は教育部の派遣した20人あまりの中国人と一緒に日本へ行った。ほとんどの人が大使館から日本人の家に下宿するようアレンジされた。こうすることで日本語の上達にも役立ち、より早く日本社会にとけ込めるからだ。私は東北から来た于爾捷さんとともに東京大学から離れた江戸川区にある渡辺家に行くことになった。渡辺さん一家は、私の博士学位口頭試問へのサポートのところでも述べたように、私たちにとても親切にしてくれた。ふだん、渡辺夫人は私たちのために米や麺を買い、夏には冷蔵庫にすいかを冷やしておいてくれたし、私たちは時には餃子を作って渡辺一家に食べてもらった。休みの日には、渡辺夫妻は私とよくおしゃべりし、これは私の日本語上達に大いに役立った。私は本多先生や藤嶋先生、研究室の学生たちを家に招待することもあったが、渡辺家は東京大学の先生がうちにきてくれるなんて光栄だと言って喜び、玄関で一家がにこやかに出迎え、腰をかがめているといった状態であった。1985年初め、私は客員研究員としての仕事を終えて日本を離れる時、渡辺家は名残を惜しんで空港まで送ってくれた。半年後、今度は私を空港まで出迎えたのだが、ゲートを出て顔を見たとたん、渡辺夫人は「おかえりなさい」と言ってくれたのである。私は本当に感動した。

 私は明るく活発な性格であり、日本で多くの友だちができた。私が博士学位を取った時、友人たちが電話でお祝いを言ってくれた。偶然にも、口頭試問が終わったときに日本感光色素研究所の小合社長が電話をかけてきたのだが、合格を知ったとたん「ばんざい」と叫んだ。私はぼうぜんとしてどうしていいかわからなくなってしまった。その後、招待を受けて2度目に研究所を訪問した際、研究所がとってくれた新幹線の切符は前回よりよい指定席だった。こうしてみると、東京大学での博士学位取得が、日本人にとってどんなに重要なことであるかがわかる。私をいろいろ助けてくれた出版社の友人、萩原光子さんは私のために指輪をオーダーしてくれた。その指輪は今でも私の指にはめられている。本多研究室で親切にしてくれた高橋洋子技官も、小さなことまで行き届いて私の面倒をみてくれた。この2人のことは話さないわけにはいかないし、彼女たちとの友情は生涯自慢できるものである。

 東京大学5号館は私に多くの感動的な物語を残してくれた。最初の頃の本多研究室も、その後の藤嶋研究室も、そこでの出来事はまるで昨日のことのようだ。藤嶋先生はアメリカ留学の経験があり、留学生の外国生活がどんなに大変かを、身をもって知っていたので、留学生を国内の学生よりも気にかけてくれた。私は日本に来る前に少し日本語を勉強したが、レベルが低かったので、研究室に来てからも引き続き授業を受けて勉強したいと思った。しかし藤嶋先生はそれを認めなかった。「言語はツールだ。お金で買うことができる。でもきみは技術と方法を学びに来た。それはお金で買うことはできない。今のきみの日本語で十分だ」。

 半年後、藤嶋先生は「日本語で夢を見るようになったかい」と聞いた。私は「ほんとうに見るようになりました」と言うと、藤嶋先生は笑って、「それでいいんだ」と言った。私は2年間、自身の努力と藤嶋先生、高橋洋子さん、下宿の渡辺夫妻、岡田さん、さらに多くの友人たちに助けられて長足の進歩を遂げた。

 さまざまな分野の人と日本語で交流するのも問題はなく、会議で学術的な発表をするのも問題なかった。ある時、京都の日本写真学会で口頭発表をしたが、流ちょうな日本語と質問への完璧な回答で、2度の大きな拍手を受けた。さらに東大の研究室に戻ると突然みんなから祝福を受けた。日本の学会の発表で2度も拍手をもらうなんて、めったにあることではないと言うのであった。

恩師との縁は、一生かけても話し終わらない物語だ

 1987年、私はすでに中国に戻っていた。藤嶋先生は招待を受けて湖北省の襄樊大学へ講演に来ることになり、同時に襄樊大学の名誉教授となった。藤嶋先生は中国で初めて名誉教授となったのである。襄樊大学は藤嶋先生に物理化学を2日間講義してもらう予定だった。言語の問題から、藤嶋先生は日本語で講義をしたが、化学には多くの専門用語があるので、一緒に訪問した私が通訳をした。2日間の講義を無事に終え、襄樊大学の学長に伴われ、藤嶋先生と私は桂林観光をした。藤嶋先生は中国の美しい山河に感動し、途中で一緒に記念写真を撮った。これも忘れられない思い出である。

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1987年秋、藤嶋先生(右から2人目)は襄樊大学で2 日間の講義を終え,桂林観光をした。(左端が筆者)

 藤嶋先生は普段とても忙しいが、いつも細やかに周りの人を気遣ってくれた。ある時、私は長く家から手紙が届かないと言って非常に心配したことがあった。当時、電話は今のように普及していなかったし、国際電話は非常に高かった。藤嶋先生は私にお金を渡して、早く家に電話をしなさいと言ってくれた。電話を終えて私はやっと安心することができ、心の中は感謝の気持ちでいっぱいになった。

 藤嶋夫人も優しい方で、留学生にとてもよくしてくれた。私が日本に来て間もない頃、非常に寒かったので藤嶋夫人は私にこたつを買ってくれた。足を伸ばすと暖かく、私の心まで温かくなったのは言うまでもない。藤嶋先生夫妻はよく留学生や研究室の学生を家に招待してくれた。客間の中央には、私の贈った額がかけられている。それは中国の著名な書道家、米南陽が書いた、藤嶋昭先生の名前の字の入っている「康泰昭祥」の額である。私はやはり米南陽先生に本多健一先生のために「健挙凌雲」の額も書いてもらったが、それは本多先生の客間にかけられている。

 藤嶋夫人は日本舞踊花柳流の名取で有名な人であり、よく公演を開いていた。私や学生たちは毎回見に行き、藤嶋先生と一緒にボランティアをした。藤嶋先生の家に集まる時は、踊りを踊ったりごちそうを食べたり、非常になごやかな雰囲気であった。当時、研究室にはアメリカの共同研究者が3歳の子どもと一緒に日本に来ていたが、藤嶋先生夫妻は嫌な顔ひとつせずに面倒を見ていて、このアメリカの研究者とも非常に仲が良かった。

 本多先生と藤嶋先生の誠実さと善意は研究室を引っ張り、研究室メンバーも誠実さで応えた。1985年1月、客員研究員としての仕事を終えて帰国する時、下宿先の渡辺さんが車を運転して成田空港まで送ってくれた。ところが空港につくと、なんと10数人の研究室の学生たちが目の前に立っているではないか。成田空港は都内から離れているし、学生たちのほとんどはアルバイトをしながら学校に通っている。成田空港を往復するとその交通費は2日分のアルバイト代と同じくらいだ。私は思わず涙が出た。5ヵ月後、博士の口頭試問のため、藤嶋先生や学生たちの援助を受けて私は日本へ戻った。翌日研究棟に入ると、1階の廊下には学生たちが書いた「陳さんの再訪を歓迎します」という横断幕が貼られていた。私はまた感動で涙を流すことになった。そして研究室の学生たちが出てきて一緒に記念撮影をしたのである。この2日間、私は5号館の有名人であった。これも忘れることのできない真心であった。

 1986年、私は中国科学院感光化学研究所に戻り、1987年に副研究員、研究室主任に選ばれた。1990年に研究員に昇格、1992年には感光化学研究所の副所長に任じられた。私は帰国後、国内唯一の銀塩拡散転移システムを研究する研究室と電気化学研究の基盤を確立した。私が帰国後、スムーズに実験ができるよう、藤嶋教授は私に回転リングディスク電極(RRDE)電気化学装置を贈ってくれたが、それには10数個の電極や部品も含まれており、電極は1個10万円ほどしていた。こうしたサポートは、藤嶋教授が私の研究の計画を認めていたことを示すものだ。

帰国後に創業、恩師たちの期待を決して裏切らない

 私は日本にいるとき、藤嶋先生の影響を受け、革新的な価値のある論文を発表し続けた。同時に応用研究も行い、実用的価値のあるものを国や社会に役立ててほしいと考えていた。藤嶋先生の自己浄化材料が日本の有名なビルに使われ、社会から広く認められているように、私もなりたいと思っていた。

 私は帰国後、責任が重大だと感じた。学んだ海外の先進的な考え方、方法、技術を中国国内に定着させ、国内のトップを走る感光化学研究の分野をより高めなければならないと心に決めた。私は研究者を育て、電気化学的な方法と新たなCCD電荷結合素子を使い、感光化学における物理的現像過程の瞬間的高速現像動力学を研究した。これによって書いた論文は数本連続してイギリスとアメリカの感光画像関連の一流雑誌に掲載され、そのうち2本はトップ掲載された。

 また私は帰国後、山野貿易と協力し、中国科学院と日本感光色素研究所との研究を進めて、日中友好研究所関係を結んだ。1988年頃、有機系光記憶ディスクが世界の記憶材料研究の焦点になった。両研究所は2003年までこのテーマについて共同研究を行い、日本側が色素を提供し、私の研究グループはシアニンを使った有機系光記憶ディスクを研究し、4人の修士・博士課程学生と1人のポストドクターを育て、外国の雑誌に10数本の論文を発表して、2003年に共同で岡山市の「山陽科学技術賞」を受賞した。同時に、私の研究グループは清華大学中国科学院が担当する国家科学技術部の863プロジェクトの1つ「光記憶ディスクと材料」に参加して成果を上げ、国の検査に合格した。

 中国に戻ってから、私はそれまでの研究をベースに、国の経済や国民生活への応用へ関心を移していった。それはタイミングがよかったとも言える。私の研究グループが長年蓄積してきた感光における銀塩拡散転移システムが、新しい高速直接製版印刷に使われたのである。このことについては、三菱製紙研究所の二木清所長を挙げないわけにいかない。私たちは日本写真学会で知り合い、私はこの研究所が開発した写真直接製版が銀塩拡散転移の技術を使っていることを知ったのである。

 二木所長は私を研究所見学に招いて交流を行い、その成果は大きかった。1986年、私の研究グループは国家出版署からの依頼で、短期間で高速製版印刷の開発をすることになり、印刷分野に足を踏み入れた。1995年、ドイツの国際印刷・メディア産業展DRUPAにおいて、コンピュータからの直接製版技術(Computer to Plate, CTP)が紹介され、コンピュータ技術の発展に伴って、全世界を席巻した。

 このことは10数年にわたり、私の研究と仕事に飛躍のチャンスをもたらした。研究グループはこのトレンドを捉え、優位性を発揮し、国家自然基金委員会と中国科学院イノベーションプロジェクトの支援を受けて、銀塩拡散転移の原理を利用してCTPの開発に成功し、写真直接製版からコンピュータ直接製版の開発とパイロットテストを完了した。それは印刷・製版のデジタル化というハイテクとして、材料や技術など多くの難題を解決し、科学研究成果の実用化、産業化の成功として、中国科学院イノベーションプロジェクト、国家863計画、国家発展改革委員会の支持を得たのである。

 2003年、広東省に国内最初の銀塩CTP機器生産基地が設立され、銀塩CTP生産ラインが産業化を実現した。この製品は品質が高く、価格が安いという優位性を持ち、人民日報、北京日報、羊城晩報などの印刷媒体に利用され、ヨーロッパにも輸出されて高い評価を受け、海外の多国籍企業と肩を並べるまでになり、多国籍企業の中国での独占を打破した。このプロジェクトは国家発展改革委員会新材料分野モデルプロジェクトに選ばれ、10年優秀成果賞を受賞した。

 2006年、プロジェクトは新材料分野の10大ニュースの第5位に選ばれた。2007年、科技日報が私を取材し、11月13日に全面記事で報道された。2012年、私は中国感光学会科学技術一等賞を受賞した。

 私の指導の下、研究室はCTP研究において常に国内トップを走っている。10年以上にわたって私たちは新たな研究分野を切り開き、研究員たちのために将来性のあるポリチオフェン誘導体などの導電性化合物の研究を行い、独自の真空自己集合方法の開発や一次元、二次元、中空、コアシェルなどさまざまな構造のPEDOTナノ複合材料の製造を実現した。これまでに修士・博士課程の大学院生を30人以上育て、100本以上の学術論文を発表し、10件以上の発明特許を申請して権利を取得し、『永存的視覚(永遠に残る視覚)』を執筆した。

後進の育成、恩師たちからバトンを受け取る

 帰国後も私は藤嶋研究室と緊密に連携してきた。特に、後に藤嶋研究室で勉強することになった将来有望な学生の劉忠範、蔡汝雄、姚建年、江雷、只金芳たちは研究室と深い関係を持つ。1985年夏、蔡汝雄と劉忠範は相次いで藤嶋研究室の博士課程に合格し、ちょうど東大にいた私は、藤嶋先生とともに2人に面接試験をしたことを覚えている。江雷は1991年に北京で開かれた日中光化学学会の際に、私に希望して藤嶋先生と会ったが、その頃の彼はまだ無口で可愛い少年だった。只金芳は私とは天津の南開大学の同窓である優秀な学生で、1991年公費日本留学生となり、北京へアドバイスを受けに来たが、私は迷わず藤嶋先生を推薦した。このほか、1995年に私は研究室の修士課程学生、孫仁徳が公費日本留学生になれるよう骨を折り、博士課程に進学できるよう藤嶋先生に推薦した。彼は日本のある大企業に就職し、現在は技術部門の中心的立場にいる。

 学業を終え、帰国するこれらの留学生たちに、藤嶋先生は惜しみないサポートをした。藤嶋先生は私に、彼らがいい仕事につき、力を発揮できるように助けるつもりだと話していた。私も彼らをできるだけ助けたいと思った。藤嶋先生からの推薦を受けて北京大学に最初に勤めた劉忠範は、私が電気化学の専門家である蔡生明教授と何度も会ったこともあって、最終的に北京大学に行くことになったのである。姚建年の帰国はやや遅く、1995年に藤嶋先生は、私が副所長を務める感光化学研究所に行けるよう、中国科学院に彼を推薦した。私も全力で協力し、中国科学院人事局に行って留学から帰国した彼の就職の交渉をし、最後には院が管理する3DKの住宅の最後の1室を確保し、姚建年一家は無事に帰国して仕事を始めることができた。

 帰国後、私は自分が呼び寄せた学生のうち、優秀な楊永安に姚建年の指導に当たらせ、彼ができるだけ早く研究に打ち込めるようサポートした。1年後、感光研究所は姚建年を全国政協委員に推薦したのである。2000年、彼は中国科学院の人事異動で中国科学院化学研究所に移ることになった。また、只金芳は藤嶋先生の推薦により、私のいる中国科学院理科学技術研究所(以前の中国科学院感光化学研究所)に入り、私は彼女のために中国科学院百人計画の資金獲得を援助した。

 江雷は藤嶋先生の自慢の学生で、国家百人計画の1人として中国科学院化学研究所に推薦されて仕事をすることになった。彼らはみな藤嶋先生の学生であり、帰国後、中国の科学技術に大きな貢献をし、最高の栄誉を獲得した。これは藤嶋先生も誇りとするところであり、私も彼らの先輩として、やはり彼らを心から誇りとしている。

日本語版編集:馬場錬成(特定非営利活動法人21世紀構想研究会理事長、科学ジャーナリスト)


日本語版「縁遇恩師 ―藤嶋研から飛び立った中国の英才たち―」( PDFファイル 3.08MB )