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【14-01】中国と日本の新年の習慣

2014年 1月21日

朱新林 

朱新林(ZHU Xinlin):文化伝播学院講師

中國山東省聊城市生まれ。
2003.09--2006.06 山東大学文史哲研究院 修士
2007.09--2010.09 浙江大学古籍研究所 博士
2009.09--2010.09 早稻田大学大学院文学研究科 特別研究員
2010.11-2013.03 浙江大学哲学系 助理研究員
2011.11-2013.03 浙江大学博士後聯誼会副理事長
2013.03-現在 山東大学(威海)文化伝播学院講師

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 中国の春節(旧正月)はすでに3、4千年の歴史を持ち、現在まで一年の始まりとして重要な意義を持ってきた。漢代の『尚書大伝』には、「正月一日為歳之朝,月之朝,日之朝,故曰三朝,亦曰三始」とあり、一年の始まりであるとともに月の始まりであり、また一日の始まりでもあり、「三朝」や「三始」とも呼ばれる正月一日の特殊性が示されている。また隋代の杜台卿『玉燭宝典』には、「正月一日為元日,亦云三元:歳之元,時之元,月之元」とあり、元日が「三元」とも呼ばれ、新年の始まりであり、新たな季節の始まりであり、新たな月の始まりとしてこの日が重んじられていたことが示されている。人々はこの日、古いものを送り出し新しいものを迎えるため、幸福を祈願するさまざまな行事を行い、新年を喜びで迎える。中国の歴代朝廷はさまざまな祝いや祈りの儀式を行ってきた。

 新年に先祖を祀る習慣は、日本と中国で相似点と相違点がある。相似しているのは、新年に先祖を祀る儀式を行わなければならないという点である。異なっているのは、具体的な時間と方式の違いである。中国では普通、「除夕」(大晦日)の「年夜飯」(大晦日の晩御飯)の前に先祖の供養が行われる。直系の親族はこの時、できる限り集まっていなければならない。大晦日の午後には、夕食の前に先祖(位牌もしくは画像)に食品や料理、酒をお供えし、儀式によって先祖に声をかけ、敬意を表する。儀式が済んだら親族で食卓を囲み、一年の最後の食事を共にする。中国では、新年とりわけ旧正月初日には、年配者や親族、友人への挨拶回りが行われ、寺院や先祖の墓を参る習慣はない。筆者は2010年の新年、明治神宮を参拝したが、にぎやかなその光景は今もありありと心に残っている。

 具体的な違いはいくつもあるものの、中日両国の古くからの年越しの習俗は、神霊や妖怪と関係を持とうとする態度において共通している。人々を守る先祖や善神に感謝を示すと同時に、人々を脅かす悪霊や妖怪を追い払う。両国の習慣の意義と精神は大同小異であり、古代においても現代においてもそれは変わらない。具体的な方法においては違いがあるものの、年越しの期間中には、祖先や鬼神との関係が大切にされ、各種の方法で祖先や鬼神との疎通が図られる。これらの存在に対して敬意を示し、願望を伝え、これらの存在が人々を守ってくることを願うことは、両国の年越しの習俗に共通している。

 中国の南方でも北方でも、日本の東部でも西部でも、年越しには多様な行事があり、大同でありながら小異に満ちている。こうした多様な行事の意義と実質、文化的な内容は、新年に幸福を祈ることによって現実的な人間関係を整え固めることにあると同時に、天と人との関係、つまり人を超える神秘的な天神や妖怪の世界と人間との関係を映し出すものでもある。

 中国の春節(旧正月)は普通、旧暦12月(臘月)の23日もしくは24日の祭竈節(かまど祭)によって始まる。「官三民四船家五」という言い方があるが、これは、官府(役所)は旧暦23日、一般の民家は24日、水上に住んでいる人々は25日に祭竈節の儀式を行うことを指している。祭竈節りを終えると、年越しを迎える準備が正式に始まる。旧暦12月23日から除夕(大晦日)までの時期を、民間では「迎春日」と呼ぶ。

 中国古代の人々は毎年の始まりをとりわけ重視し、その第一日を「元日」、または「元正」や「元旦」と呼んだ。正月一日は、一日の始まりであると同時に月の始まりでもあり、年の始まりでもあり、「三元」としての特別な意味がある。この日はまた、重要な政治的事件と関係付けられる日でもあった。『太平御覧』は『尚書•舜典』を引用し、「正月上日,受終于文祖」、「正月朔旦受命于神宗,率百官若帝之初」、「月正元日,舜格于文祖」などと記している。ここにある「正月上日」と「正月朔旦」、「月正元日」が指しているのは、いずれも旧正月の初日である。一般の人々は地上の住民としてこの日、身を清め、先祖への祈祷を行う。後漢崔寔『四民月令』は、「正月之旦,是謂正日,躬率妻孥,挈祀祖禰。前期三日,家長及執事者皆致斎焉。及祀日,進酒降神畢,乃家室尊卑無小無大以次列坐于先祖之前,子婦孫曾各上椒酒于其家長,称觴挙寿欣欣如也。謁賀君師,故将宗人父兄、父友友親、郷党耆老。是月也,択元日可以冠子。百卉萌動,蟄虫啓戸,乃以上丁祀祖于門及祖禰道陽出滞,祈福祥焉。又以上亥祠先穡以祈豊年」とある。このことは、一般の民家でも新年には元日から、祖先と神霊とを対象とした一連の祭祀活動が行われていたことを示している。大規模に幾度にもわたって行われるこうした習慣は、人と天とを疎通させる意義を持っている。古代においてはこうした儀式は特に盛んだった。土地によって習慣が違うため、祖先を祀る形式も多様である。ある土地では外にある先祖の墓を参り、ある土地では祖廟で先祖を祀るが、多くの家では先祖の位牌を広間に並べ、供物を捧げ、年齢順に香を焚いて跪拝する。漢族が先祖を祀る場合は、多くが魚や肉の料理を捧げる。こうした料理を高く盛りつけ、豪勢さを表すのが一般的である。北京に住む南方人が執り行う儀式はとりわけ盛大で、8つの料理を並べ、中央には火鍋も設置し、それぞれの位牌の前に杯や箸を置く。大晦日や元旦、元旦の夜には鍋に火を点け、料理をたびたび交換する。

 先祖を祀り、幸福を祈ることのほか、屠蘇酒を飲んだり、爆竹を鳴らしたりということも行われるが、その目的は、妖怪や悪鬼をはらうことにある。屠蘇酒は一種の薬酒である。古代の習俗においては、元日には家族みんなで屠蘇酒を飲み、不正の気をはらっていた。鶏の絵を貼ったり、鶏を外に掛けたり、桃板を作ったり、門神を描いたりすることなども、魑魅魍魎の侵入を防ぐ意味があった。飲食も厄除けの意味があり、「却鬼丸」という食品が正月に供される習慣もあった。春節に貼られる「春聯」は、「門対」や「春帖」とも呼ばれ、対にして貼られる「対聯」の一種である。春聯の由来の一つは、「桃符」とされる。人々は最初、桃木に人形を刻んで家の入り口において厄除けとしたが、後には桃木の上に門神を描くようになり、さらには桃木板に門神の名前を書くだけのものへと簡略化された。春聯のもう一つの由来は「春貼」である。古代には、立春日に「宜春」の二字を貼る習慣があり、これが徐々に春聯へと発展したという。春聯が広く普及され始めたのは明代のことで、朱元璋がこの習慣を提唱したことと関係があるとされる。清代の陳尚古『簪雲楼雑説』の記載によると、朱元璋がある年、年越しの準備をしていた際に、すべての家の門に春聯を貼って喜びを示すように命令したという。春聯はもともと桃木板に書かれていたが、後には紙の上に書かれるようになった。桃木の色は赤色であり、赤色は吉祥や厄除けの意味があることから、春聯はほとんどが赤い紙に書かれる。寺院では黄色の紙が用いられる。喪に服している期間には白・緑・黄の三色が用いられ、最初の年は白い紙、二年目は緑色の紙、三年目は黄色の紙が使われ、4年目に喪の期間が終わると赤色に戻される。満族は白を好むことから、清代の宮廷の春聯には白紙が用いられ、この白紙には青い縁が付けられ、内側が赤い線で飾られていた。

 鐘つきは新年を迎える民間の伝統である。仏教の経典には、「聞鐘声、煩悩軽、智慧長、菩提増」とあり、108回鐘を鳴らすことには、人生の108種の煩悩を取り去り、吉祥や安楽を得る意味がある。新年の鐘の音は、人々が新たな年を迎え、幸福を祈る精神的なシンボルとなっている。仏教寺院に備えられた鐘は、時間を知らせる道具であると同時に、仏教の智慧の代表でもあった。最初の鐘の音は「開誠鐘」と呼ばれ、仏の光が広く照らし、災難を取り払い、新たな年に福を招き入れ、平安と吉祥をもたらすという意味があった。鐘つきの習慣は日本では比較的完全な形で残っており、例えば東京の浅草寺には大きな鐘が吊るされ、毎年新年を迎える時には多くの人々が訪れ、新年の幸福を祈る。

 大晦日に徹夜して新年を迎えることは、中国の新年の最も重要な活動の一つであり、民間の人々の長寿や平安への願いを表している。この習慣は古代から受け継がれてきたもので、最早期の記載では西晋代の周処『風土志』がある。これによると、大晦日の夜に互いに贈り物をすることは「餽」、酒や料理の席に互いに招き合うことは「別歳」、年配者と若輩者が集まって酒を飲んで年の替り目を過ごすことは「分歳」、みんなで眠らずに朝明けを待つことは「守歳」と呼ばれていた。「一夜連双歳,五更分二天」とは、二つの年を分ける年明けの時刻(五更)を重んじる習慣を表す言い方である。大晦日の夜には、一家で集まって「年夜飯」を食べ、ろうそくや油灯を点け、炉を囲んでおしゃべりをし、古い年がすぎ新たな年を迎える時刻を待つ。大晦日に徹夜をして新年を迎えることは、悪運や疫病を追い払い、新たな一年の吉祥を願う習慣であり、現在にいたるまでこの習慣は続けられている。

 新年を迎える準備は中国と日本で似通っている。各家庭では大掃除が行われ、人々は体を清め、通りには正月商品を売る市場が現れる。日本では、寺院は一時閉められ、掃除を終えてから再び開放される。有名な寺院、東京の浅草寺などには、にぎやかな市場が現れる。12月の17日と18日の2日間は、浅草観音で歳の市が開かれ、観音堂の前には開運の大黒像も置かれる。市場は広く設けられ、南側からは駒形蔵前通りから浅草御門まで、西側からは本願寺から車坂を通って上野黒門前(寛永寺門前)まで、店舗がいくつも並ぶ。それから数日経つと神田明神の歳の市となり、そのにぎやかさは浅草と匹敵する。さらには芝や愛宕、麹町平河天神などでも大小様々な歳の市が開かれる。12月24日には日本には「前夜祭」の習慣があり、江戸時代には特に盛んで、一年の平安と無事を感謝し、親友や同僚と集まって酒を飲んで楽しむ。12月25日には学校が休みに入る。そして28日には会社も休みに入る。家々の門前には松と竹で作られた門松が飾られ、稲の縄で作られた輪飾りが掛けられ、ユズリハやウラジロ、福寿草、梅などの飾り付けもなされる。室内には、モチを重ねてミカンを置いた縁起物の鏡餅が置かれる。大晦日の夜半には、寺院で鐘がつかれ、一年間の人々の煩悩が送り出される。これらの行事は、古代の中国にそれぞれ対応するものが見受けられるものの、中国の旧暦12月24日に行われるのは祭竈節であり、友人を招いた宴席などは設けられず、基本的には各家庭で行われるため、日本とは違いが見られる。

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 このほか日本には七福神参りの習慣があり、現在まで受け継がれている。参拝の経路は江戸時代以来の3つのルートから大きく増えた。確認された参拝地点は1995年までに全国で95カ所に達した。東京では、日本橋や銀座、港区(麻布)、小石川、下谷、浅草、亀戸、東海(品川)、池上、板橋、柴又、八王子、多摩(青梅)、調布などにあり、東京以外の場所でも参拝地点を新設する動きが出ている。七福神参拝は、関連する寺に副収入をもたらす機会ともなっている。七福神参拝は年越しの正月に限らず、その他の日にも広がっている。

 日本の正月には七福神参りのほかに、先祖を祀る伝統行事もある。大平与兵衛が天保十年(1839)に記した『農家年中行事記』には、東京以外の地方の普通の農家が正月に祖廟を祀る習慣についての記載がある。これによると、正月元旦には、雑煮餅を食べた後、一家の長が長男と一緒に先祖の墓がある菩提寺を参拝する。この日に菩提寺に行って先祖に新年の挨拶をすることは、記録の残されたこの土地で古くから伝わる風習だという。

 日本にはさらに、新年を祝うにぎやかな遊びの習慣もあった。『山本平左衛門日記抄』には元禄十六年(1703)の記録として、「夜長蔵、又七、又六、一八、権助、春念、長四郎、善右衛門,于庭竃令遊也」との記載がある。享保三年(1718)の記録としては、「男女之童子,夜遊于庭竃移時,催福曳之興」の記載がある。ここで言われている「庭竃」とは、庭にかまどを置いたもので、これによって荒ぶる神を祀り、子どもたちはかまどを囲んで餅を焼いて食べる。現在の野外バーベキューにも似たこの行事は、正月の夜の楽しいイベントだった。この夜には、主人と客人、下人が一緒になり、貴賎や年齢、男女の別なく遊んだ。人々が心を開いて好きなだけ遊ぶこの日には、悩み事や心配を忘れさせてしまう効果があった。

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 『農家年中行事記』の記載によると、ある土地では、正月14、15、16の3日間、多産と豊作を願う祭りが開かれていた。この日、男性は男根状の祝木もしくは穂が垂れた木の棒を持って各家をめぐり、祝木を新婦の臀部に置き、生殖機能を強めるまじないとし、子どもが早く生まれることを願った。若者は爆竹を鳴らし、道祖神(強い呪力を持った守り神で、繁栄祈願の対象となる農耕の神)を祀り、その年の人々の繁栄と五穀の豊穣を祈った。年三度の収穫を祈ったことから、「三毛打」とも呼ばれた。15日の夜には、人々は門松などの正月飾りを取り除き、塔状に積み上げて燃やした。男たちと女たちはこの火を囲んで、男女の縁結びを象徴する餅を焼いた。16日に火が消えてやっと人々は帰っていったという。この活動に夜を徹して参加していたのは若い男女である。3日にわたるこの行事はもともと多産や豊作、縁結びの意義があったのだから、この期間は彼らにとって、自由に交わり、夜を徹して喜び合う時間であったと考えられる。

 日本は明治五年(1872)まで中国と同様、旧暦を使っていたが、明治五年からは新暦(太陽暦)に変更され太陰暦は廃止された。中国で毎年、年越しが二重に行われているのとは異なっている。興味深いのは、祖先を祀り、神を迎え、年明けを待ち、正月参りをし、お年玉をあげるなどの大晦日から15日(元宵)にかけての伝統行事は、日本でむしろよく保存されており、行事の時期が新暦に移されただけだということである。もちろん、日本の新年の習慣にも多くの新たな時代的要素が入っている。中国と日本の新年の習慣を知ってから、両国の新年を体験する機会があれば、中日両国の習慣が相通じているということを知ることができ、安定と幸福に対する願いが両国民で共通していることを知ることができるだろう。