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【09-005】天国からの感謝

楊 威(東京理科大学知財専門職大学院1年)   2009年9月17日

 先日引越ししたとき本を整理していたら、「アメリカで困らないための本<健康・医療編>」という日本語と英語で書かれた用語集と様々な筆跡でノートに書かれた日記が出てきた。見た瞬間、あの出来事がまるで昨日のように思い出された。日記は1週間分しかないが、その1週間には、命の大切さ、日本人の優しさ、そして奇跡的な出来事の体験のすべてがこの用語集とノートの中に詰まっていた。

 当時、1994年、私は日本での生活は5年目に入り、創価大学経済学部の4年生になったばかりだった。日本語といえば「こんにちは」しか知らない状態で日本に来てしまい、創価大学の日本語別科で1年間日本語を勉強し、すぐ学部に入った。確かに母国で日本語を勉強した方よりきれいに発音できるが、日本語の文章力が低く、卒業論文を書くことにまだかなり不安だった。

1991年4月、大学の入学式のときの写真

1991年4月、大学の入学式のときの写真

 私が日本に来た当時、学費は殆ど奨学金で納めることができた。生活面でも企業と中国語専門学校で中国語を教えていたので、学生生活を送るのにぎりぎりとはいえ苦しくなかった。ただその年に妹が日本に来たので、妹の学費を支援するためにアルバイトで忙しく過ごす毎日だった。

 このような状況の中で、突然、ミヤガワさんから電話がかかってきた。ミヤガワさんは、私が中国にいた時に中国語を教えていた日本人高校生の父親で、フリーのジャーナリストであり、1、2回しか会ったことがなかった。確か娘さんが中国語を勉強し始めたのは、父親が中国に興味があるからと聞いていた。電話の内容は、成田赤十字病院に重体で緊急入院した中国人の患者さんがいて、言葉が通じないので通訳してくれないかという頼みだった。娘さんが北京に留学していた縁で知っている中国人だという。

 当時私は中央線の西八王子に住んでいたが、成田赤十字病院まで片道2時間半はかかる。ミヤガワさんの話し方が穏やかだったので、重体と言っても1回行き、病状を通訳するだけだと理解して快く応じた。

 入院されていたのは79歳の中国人おばあさんだった。アメリカの大学で数学の先生をしていた息子さんに会いに行き、息子と一緒に中国に帰国する際に成田空港でトランジット待ちのとき、脳梗塞で倒れ緊急入院した。息子さんが付き添っているが中国語と英語しか話せないため、週に一度しか病院に来ない英語通訳のボランティアが来ないと詳しい病状がわからないという。

 ミヤガワさんは私に連絡する前にすでに知人でカメラマンのタカハシさんと昼夜交代で24時間看護していた。しかし、息子さんとは用語集の範囲でしか交流できない。詳しい病状を説明したり病院の中を案内したり、日常生活の案内をすることもできないため私に連絡してきたのだ。

5月14日

 初めてミヤガワさんと一緒に病院に行った。患者のおばあさんはずっと昏睡状態になっている。息子さんのジャンさんに、医師から聞いたおばあさんの病状を説明した。重度心不全、脳血栓と肺機能低下により、左半身麻痺、意識不明の昏睡状態が続いている。病室はナースステーションの真正面、すべての機械がベッドとナースステーションにつながっていて、24時間、心電図と呼吸機能を監視している。最も危険な患者であり、回復のための処置は24時間体制で行っている。

 万一、何かあった場合、医師や看護婦は息子さんと言葉が通じないため、「友人」になった全く赤の他人の私たちが責任を持って決断する必要がある。そこで私、ミヤガワさん、タカハシさんの三人が交代で病院にいることを決めた。

 私は大学のゼミの先生から了解をもらい、休めるアルバイト先からも休暇をもらった。こうして西八王子から成田赤十字病院へ通う日々が始まった。

 この日の夕方、私は中国語の授業があるためタカハシさんと一緒に帰ることにした。ミヤガワさんが泊り込み、私は明日の夕方までに病院に行き、24時間当番することになった。

 その当時、携帯電話はまだ一般に普及しておらず、終電で帰るので交代しに来る方に会えないまま帰ってしまうこともある。それで当番の人は連絡帳をつけることにした。それがノートに書いた日記である。この日記に沿ってその当時の出来事を振り返ってみた。

5月15日、曇りのち雨

 午前中にゼミに出て、午後4時に成田赤十字病院に着いた。ミヤガワさんが記入した連絡帳の内容を息子さんに伝えた。

 最大の原因は心不全である、心臓に2年前にできたと推定される心筋梗塞がある。そのため、心臓の60%の機能は停止していて、30%しか機能していない。今回の旅で、心臓にできた血栓は脳まで流れていて、脳の血管を詰まらせ、左半身機能停止(麻痺)が起こってしまった。脳の血栓はさらに心臓に負担をかけ、悪循環になっている。

 肺に水、痰が溜まっているため、血中へ酸素の取り込みが十分にできない。人工的に酸素を送っているが、動脈中の酸素濃度は正常値の50%しかない。これを解決するために、肺が正常に動けるように、肺に溜まった水分は利尿剤を使って体外へ排出する措置を行っている。

 13日の夜に、心臓への負担がかかり過ぎて、急激な血圧低下が起きてしまい、血中酸素濃度が正常値の40%という危険な状況に陥った。利尿剤と血圧を上げる昇圧剤を使い、血圧が一定のレベルに維持されている。回復の見込みは五分五分であり、依然として危険な状況が続いている。

 息子さんは静かな方で、「数学の先生」のイメージにぴったりする方だった。彼は初めて詳しく病状を知ったときにしばらく黙っていたが、やがて「母はとても元気だった」と一言しゃべった。

 午後6時、ミヤガワさんが帰った。病院の食堂は午後4時に閉まったため、息子さんと病院の周りを歩き回ったが、スーパーもなければ、食事ができる店もなかった。最後に近くのローソンで買って来た冷やしそばを二人で食べた。

 病院に来てから、売店のサンドイッチしか食べてない彼は初めて日本そばを食べてとても喜んでくれた。初めて笑顔になった彼の顔を見て私は思った。中華料理ではないが、中国のすぐそばにある日本にいることを実感できたかもしれない。そして母国語が通じる私がそばにいる。

 彼は母親を北京に送り返すために一緒にアメリカを発ったが、まさか全く知らない異国の地で母親が倒れるなんて、夢にも思わなかっただろう。彼は長い間、中国に帰らなかったので、北京の旧友たちや親戚に会うのを楽しみにしていた。しかし今回の旅で、彼も母親も医療保険に入ってなかったし、十分なお金も持っていなかった。

 私は医学専門用語が多い病院で通訳ができるかどうか不安だった。しかしそのときやっと私の使命、通訳より重要な使命がわかった。それは彼の話を聞き、彼に日本を紹介し彼の不安を取り除くことだ。

 午後10時、息子さんが寝た。やっと母国語を話せる相手がいてほっとしたのか、息子さんは一気に疲れが出てきたようだった。病院から毛布を借り、息子さんが待合室や会議室で寝られるようにした。2日に一回だが、シャワーも使わせてもらえるように病院と話ができた。

 夜になっても看護婦さんが一時間に一回来て、おばあさんの体温や血圧をチェックしていた。強心剤と利尿剤を同時に使ったため、体温は38度まで上昇した。両脇の下と両足の間に氷枕を挟み、夜12時にやっと37.2度まで下がった。病院側は付き添いのために移動ベッドを設置してくれた。

5月16日、晴れ

 朝5時、私は突然の疲れに襲われ、もう自分の体でないような感覚で椅子に座り込んでしまった。周りの人が何かを言っているのはわかるが、瞼を開けていられなかった。夜に患者さんに気功を施したことで体力を極端に消耗したのだろうか。

 実は気功とはどういうものなのか私もわからない。中国の本には、「気」によって免疫力や治癒力を高めて健康のレベルを上げて「自養其生」(自らその生命を養うこと)を目指す健康法だと書いてある。「気」とは生命のエネルギーでもある。

 日本に来たのは日本人である従姉妹の姉が招いてくれたからだ。彼女の夫は気功師で、俳優時代に腰に大怪我をして、下半身不随になってしまった。しかし気功を習ったお陰で元の健康体に回復し、今や半身不随になった影も形もなかった。日本で気功教室をやっていて、有名なアメリカの俳優スティーヴン・セガールも彼の気功教室で勉強したことがあった。

 姉の家に住んでいた時に、体調不良になるとよく治療してくれた。説明できないが、確かに体調がよくなるし、熱のようなものが体の中で流れていることを感じる。

 私は病院で寝られなくて、ずっと患者さんの顔を見つめていた。肺に痰が溜まるということは、漢方では肺に熱が溜まっているとの見方である。ここで気功のことを思い出した。ただし言われたのは、自分では自分のためにやっても良いが、悪い気を「排出」する方法を習ってないので、他人に気功を施すことはやってはいけない。

 それでも試してみたくなり、夜の2時半から3時半にかけて、気を送り痰を押し出すようにやってみた。驚いたのは3時半過ぎに、おばあさんが突然咳をし始め、看護婦さんは20分に一回痰を取るようになった。取れたのはやわらかくなった痰で、とても良いことだそうだ。今でも本当に気功ができるかどうかは私にもわからない。あの時は効くようにと祈るばかりだったが、その祈りが通じたように感じた。

 朝7時、看護婦さんにおばあさんの名前の中国語の読み方を教えた。看護婦さんが昏睡したおばあさんの名前を中国語で呼びながら体を拭いた。今日はいい天気ですねと、早く治して外の日本も見てみようねと声をかけた。起きたばかりの息子さんは目がうるんで声が出なかった。中国の病院でもアメリカの病院でも病気は治療するが、毎日体を拭いてもらって脳を刺激するために、看護婦さんはわざわざ中国語を習い、片言の中国語で呼びかけるのは日本だけだと感動したそうだ。

 よく保険に入っていないと病院から治療拒否される話を聞くが、最初に入院したときから、病院側は彼らが医療保険に入ってないことを知っていた。それでも一生懸命母親を治療し、息子さんの生活まで心配してあげた。日本での出費を節約するために、病院側は彼に会議室や待合室に寝ることを許し、国際電話までナースステーションの電話を使わせた。

 レントゲンとCT検査が終わった。脳の中に大きい血栓がない。小さい血栓は脳の機能に影響するので、体が動けるようになるのはまだ時間がかかるそうだ。午前10時、私はおばあさんの手を握ってマッサージしていたら、おばあさんが突然目を覚ました。息子さんは私をさして、「彼女は楊さんだよ、同じ苗字ですよ、ずっと母さんのそばでいてくれましたよ」といった。おばあさんは目だけ動かして私に向け、私と目があった瞬間、突然目を大きく開き、私に微笑んだように見えた。病室中に歓声が上がった。

 看護婦さんが「こんな良い娘がいてよかったね」とおばあさんに言ったら、息子さんは「娘のような赤の他人ですよ」と困った私の顔を見て代わりに説明してくれた。一同が驚き、日本では本当の娘でも毎日2時間半もかかってくる人が少ないよとほめてくれた。少し疲れが飛んだような気がしてきた。

 実は、私とおばあさん、偶然にも苗字が同じだけではなく、日本語の片仮名で読みを書いたら、同じ名前になってしまう。おばあさんのベッドに掛けられた名札には「楊 維儀、ヤン ウェ イ」と書かれ、私の名前は「楊 威」と書いて、「ヤン ウェイ」と読む。

 午後2時半、痰を溶かす薬を投入し、強制的に痰を取り出す措置を行った。

 午後4時、私は中国語の授業のために病院を後にした。もう立っていられないほど疲れたので、電車に乗った途端寝てしまった。

5月17日、強風

 昼の12時までぐっすり寝て、午後の4時に再び病院に行った。連絡帳によると、本日はおばあさんが一回も目が開かなかったそうだ。

 中国大使館の方と入国管理局の方がお見舞いに見えた。息子さんは驚いていて、何回も「ありがとうございます」を繰り返した。大使館の方ならわかるが、入国管理局の方がお花を持ってお見舞いに来てくれることは信じられなかったようだ。こちらが迷惑をかけたのにと感激していた。

 私もこのとき初めて知ったのだが、おばあさんは退職する前に北京大学の先生だったことだ。私は北京大学の隣の清華大学の構内で育てられ、北京大学第一分校の卒業生だ。何か不思議な力で、私とおばあさんが結びつけられているような気がしてならなかった。

 夜10時半、4時間に1回の検査結果、体温38.4度、血圧は102から64まで下がった。すぐ主治医を呼んできて、さらに検査した結果では、やはり肺に痰が溜まりすぎて、今日は痰を溶かす薬を投与してもあまり効かなかったと言う。今の状態はぎりぎりで、さらに血圧が下がったら大変なことになると医師から息子さんに伝えてくださいといわれた。

5月18日

 病室が異様な緊張感に包まれながら日付が18日に変わった。私の体内時計はすっかり狂ってしまい、昼の12時まで寝たお陰か今は全く眠くない。疲れきった息子さんを待合室の椅子に寝かせながら、私はゆっくり連絡帳を読み、午後4時以後のことを記入した。

 01:05、看護婦さん何人かが、機械を載せた救急ワゴンを押しながら、突然静かだった病室に走り込んだ。主治医も走ってきて、「あなたは外に出て、家族を呼んできなさい」と私に命令した。おばあさんの脈数はゼロになっていた。薬を注射し、強く胸を押す、そして呼吸と心臓を強める機械を接続した。

 01:25、脈数は100前後になった。「夕方から血圧が上がったり、下がったりしていて、心臓に深い傷をつけた。呼吸と心臓の動きはもう元に戻らない。でも、できるだけのことをする」と先生は早口で説明した。

 病室の外で婦長さんといつミヤガワさんに電話するかを相談しているうちに、おばあさんの脈はまたなくなった。同じ救急措置を繰り返したが反応がない。やがて、おばあさんの胸を押している先生の手が止まった。

 先生は私と息子さんの前に来て、激しく息をしながら頭を下げた。「大変申し訳ない、全力でやりましたが助けることができなくて・・・、本当に申し訳ない。時間は1時35分・・・」

 このような場面は生まれて初めての経験だった。通訳ではなく、まるで私が息子さんに言っているようで、ついつい息子さんの手を握った。数秒間沈黙があって、息子さんの口が開いた。「母が日本で倒れて、こんな親切な人たちに囲まれて天国にいくことができた。やはり母は福徳がある人だ。皆さんのお陰で本当に幸せな最後だったと思う。きっと天国から日本を感謝しているでしょう」

 みんな病室から出て、息子さんにお別れの時間を作った。息子さんは小さな声で「母さん」といいながらおばあさんのほほにキスをした。息子さんに頼まれ、最後に母親との写真を撮ってあげた。息子さんは北京に電話をかけ、お姉さんと日本でおばあさんの遺体を火葬することを決めた。私はミヤガワさんにお知らせの電話をかけ、息子さんを休ませた。

 午前3時、一人で待合室にいた。息子さんは日本にいればいるほど金銭面できつくなるのだろう。休んでいる暇がない。やるべきことを早くやらないと!

①病院の勘定

 おばあさんは保険に一切入ってないし、息子さんは3000ドルの現金しか持ってなかった。クレジットカードもない。自国民を守る大使館とおばあさんが生前に勤めた北京大学に連絡するように勧めた。同時に私は病院側と交渉をする。

②火葬の手続

 日本だけではなく、中国でも経験したことがないので早速婦長さんに助けを求め、細かい手続を教えてもらってとても勉強になった。

③おばあさんの喪服を買う

④息子さんがこれから泊まるところを探す

⑤航空会社の手続

 4時、ミヤガワさんが始発の電車を待てなく、立川の自宅からタクシーで来た。私はずっと心細かったので、ぐっと涙がこみあげてきた。ミヤガワさんは私が立てたこれからの計画を見て驚き、子供に見えたけどよくここまで手際よく処理したね、とほめてくれた。

 正直、私も自分でここまでできると思わなかった。私自身は病院に無縁なほど元気で、親も元気そのものなので葬式だけではなく、病院の付き添いもしたことがなかった。この何日間で経験したことはすべて初めてのものだった。まだお葬式など残っているが、この経験で私は環境変化への対応力に自信を持つようになった。

  • 7:00 息子さんが泊まるホテルが決まった。
  • 7:30 朝食。寝てないし、これからも休めないのでたくさん食べた。
  • 9:00 火葬の手続や日程を決めた。
  • 9:30 2日後の20日午後6時の飛行機を予約する。遺骨を持っているため、航空会社が好意でビジネスクラスにアップグレードしてくれた。
  • 10:00 主治医の先生に死亡証明書を書いてもらった。会計に行き、支払いのことを話し合った。いくら安くしていただいても、すべての費用合計は数百万円ほどかかるだろう。おばあさんがいたあの救急室の部屋代だけで一日5万円だという。24時間での監視、治療体制、毎日のようにCT検査、早く自分の足で帰国できるように最新の薬・・・。それではとても払えない状態だったので、話し合いの結果、計算しなおしていただくことにした。
  • 12:00 請求書をもらった、43万円、目が丸くなって信じられなかった。結局実費の薬代しか請求されなかった。言葉が出なくて、頭を深く下げるしかできなかった。私の友人が、アメリカで背骨を骨折する事故に遭い、現地で骨折した骨をボルトでつなぐ手術をした。専属医療通訳も雇っていた。彼女は、1000万円の旅行保険に入っていたが、1週間ほどの入院生活で本当に1000万円かかったという。先進国での治療費は、ものすごく高いのが普通だ。
  • 13:00 銀行で両替。1人1回500ドルの両替限度額があった。責任者に火葬費用など事情を説明したら、2000ドルまで両替してくれた。
  • 13:30 市役所で火葬許可をもらう。日本では、なくなられた方はまず戸籍取り消し手続をしてから火葬許可書を発行する。今回、おばあさんは緊急入国したため、パスポートや荷物まで成田の入国管理局に差し押さえられていた。事情を市役所の方に説明すると、おばあさんを仮住民登録し、同時に戸籍取り消し手続もしていただいた。複雑な手続きだが30分で火葬許可証をもらった。私も勉強になった。
  • 14:00 おばあさんが着る洋服を買いに行った。
  • 15:30 息子さんをホテルに案内し、チェックインした。周囲や食事ができるところなどを案内した。
  • 17:00 帰宅
  • 20:00 自宅に着いた。

5月19日、晴れ

 今日はタカハシさんもすべての仕事をキャンセルして、お葬式に出られるようにした。11時、タカハシさん、ミヤガワさんと三人でお葬式に参加するために再び病院に行った。

 中国大使館の方が来て、とりあえず病院の費用を全額払ってくれた。返済は帰国後におばあさんが勤めていた北京大学と相談することになった。日本でのお葬式は私も初めてなので、慰安室で遺体を待っている間に、お線香のあげかたや、遺骨を拾う方法などこれからすべきことをミヤガワさんが一通り教えてくれた。

 看護婦さんは遺体に服を着せ、慰安室につれてきた。おばあさんは穏やかな顔で寝ていた。みんなでお線香を上げた。ミヤガワさんは私のそばに来て、おばあさんに口紅をつけてあげてくださいと言った。戸惑いを隠せなかった私を見て、2回目に会うタカハシさんがそばに来て、小指で私の口紅をとって上唇につけた。私も真似して下唇に口紅をつけた、おばあさんの唇は冷たかった。でも少し顔色が良くなったように見えた。

 ミヤガワさんがさらに私と息子さんに言った。「お母様は折角日本にいらっしゃったので、日本の葬式にしたがってお母様を送りたい。この1週間、楊さんがずっと娘のように故人を見守った。これからの作法なども通訳してもらうために、娘としてこの葬式に出たらいかがでしょうか?」

 息子さんも、私もこの提案に賛成した。これからの作法は私が先導する形になった。霊柩車が来たときに、私が遺影を持って列の一番前を歩いた。火葬場に着いたら、再びお線香をあげた。そしてみんなの前で棺が火葬炉に入れられた。2時間後、再びわれわれの前にいたのはおばあさんの遺骨だった。私と息子さんはおはしで足から上へ順番に骨を骨つぼに入れた。最後は頭骨と喉骨だった。すべて終わった。悲しいよりさびしかった。泣くより沈黙だった。おばあさんが最後にきらきらした目で私を見たこと、微笑んだ顔が今でも昨日のように思う。

 嵐のような1週間が終わった。ともに戦っていたミヤガワさんと別れるときに、彼は毎日持っていた「アメリカで困らないための本<健康・医療編>」をくれた。「日本で困っている中国人はきっとたくさんいる。この本を参考にして、中国語版を書いてください」。

 未だに本を書いてないが、この長い報告によっておばあさんの代わりに日本と日本人に感謝の意を表したい。

 次の日、私は1人で息子さんとおばあさんの遺骨を空港まで送った。別れのときに、息子さんは「母がみんなと別れるのを、そして日本を離れるのをさびしがっているでしょうね」と呟いた。

その後、宮川さんから贈ってきたはがき

その後、宮川さんから贈ってきたはがき
(中国と日本の友誼は永遠のものだと書いている)

楊 威

楊 威(ヤン ウェイ):

東京理科大学専門職大学院知的財産専攻に在学中。フリー翻訳者。1963年05月生まれ。
中国「北京大学第一分校」のマスコミ学科卒業、日本創価大学経済学部卒業後、日本の企業に12年間勤務。
現在フリー翻訳者として仕事をしながら、東京理科大学で勉強している。